トリートニス・パラダイム 月は無慈悲な夜のＫＯ ８
→９へ
＊１へ ＊２へ ＊３へ ＊４へ ＊５へ ＊６へ ＊７へ ＊１０へ ＊１１へ ＊１２へ ＊１３へ ＊１４へ ＊１５へ ＊１６へ ＊１７へ ＊１８へ
最も人を助け、最も人に必要とされながら、
なおかつ最も人に憎まれる。
まるで目覚まし時計のように―
救世主の宿命とはそういうものだ。
―とある宗教家
８
地球統一総合政府の３名の使者のうち、１人は初めての月出向であるらしく、およそテラのそれとは掛け離れた非機能的で、かつ重力バランスの悪いルナシティ政府のオフィスのデザインに戸惑ったように（ここでは非機能性は高級さの現れである事を知らないのだ）、落ち着かず辺りを見回していた。まだ若い彼は、上層部との意図とは別の論理でこの会見を理解しており、恐らくはシステムの不具合（現実は正しくそれに違いない）に過ぎないこのトラブルを外交上の問題に発展させない為、最大限の注意を払って意思の疎通を図る決意でいた。そんな彼を、先輩格の上司「テラ政府外外交局情報部長」であるオースティン・クレイは柔和に冷ややかな視線で見守り、課長補佐のリーファは何気に無関係な話題を振り続けていた。
「いかんね。いくら重力が少ないからってあの照明はどうも。今にもこっちに落ちてきそうじゃないか。お前もさっきから気になるんだろう、フジモト？」
急に会話を要求された情報言語解析担当官バンテス・フジモトは焦ったようにリーファの顔を見て首を振った。
「いえ―その。こちらの雰囲気と言うか… 思考方法という奴に慣れてないものですから。今のうちに少しは―」
「独特を通り越して異様なものがあるだろう。月という場所は。ここは別の世界だ。決してテラの延長線ではない」
オースティンは割り込んで口を挟み、まるで一気に結論を下すように断定した。３人が待たされている高い吹き抜けの待合室の中では、まるでＢＧＭでも鳴らすような按配で不定形のフォログラフオブジェが点滅し、それは時に花や鳥、人の姿などに静かに変形して彼らに礼儀正しい愛嬌を振り撒いた。これはルナでは有りがちな接待の一環に過ぎないのだが、そんな物は（変形する物件でさえなければ）珍しくない世界の出身者にとってはグロテスクで、どちらかと言えば大気圏離脱の際に脳裏をよぎる悪夢に近い印象があった。
「確かに。どうにも好意の現われには見えませんね」
オブジェを顎でしゃくるようにして、リーファがこぼした。
「あれが“月兎”たちの日常感覚だとしたら― 彼らの“非常時”が何に当たるかなんて、私には想像も付かんな」
「文化の差、に過ぎないじゃないですか。彼らがテラとの平穏な関係を望んでいる事は再三表明されています。私に理解できないのは、おそらく膨大で複雑な定義を前提として打ち立てられている、オリムポスの暗号言語そのもの、それだけです。論理構造が少しでも読めれば、せめて危険かそうでないかの判断基準にはなるのに… 感性の違いくらいは尊重すべきだと思いますが」
自らが少数派の文化圏に属するフジモトの意見は、ややルナの擁護に回っていた。オースティンはドアランプの表示に目をやり、ルナ政府首脳、そして最も難物と目される高位エンジニア“神官”達がこちらへ向かっていることを確認した後、（平坦にしておけば良さそうなものを）組木細工のように入り組んだ構造で作られた背後の壁を振り返った。
「我々は窓の無い部屋にいる。悪いがくつろいだ気分にはなれんのだ。これがルナの常識だとしてもな」
「トニー！」
キムのオペレートチェアが、蹴り飛ばされて危うく台座ロックから外れかけた。デバッグルームでは、火急存亡の瞬間に突然復帰した（らしい）トニーにチーム全体が色めき立った。と言っても現在のトニーの状態を少しでも把握し、実際に指令を出せるのはキム１人である。彼はマイクのフィルターが唾で塞がるほどの勢いでがなり立てた。
「どーしてたかは後で聞く。“槌”が作動してるぞ！ 気を付けろ。“ヴォルカヌス”の蓋は一つ破壊された。状況把握してるか？」
今度は全員に向け、トニーの音声が返って来た。
「してなきゃ戻ってこないわ。助けてくれた人が“タルタロス”への直通ルートを開けてくれたの。こんな火山、今でっかい塵で蓋をしてやるから待ってなさい。足がどれだけ痛かったか思い知らせてやるのよ」
幾つかの不明情報がキムの頭の中で交錯し― 聞かないと言ったにも関わらず、彼は思わず質問していた。
「助け― いや― でっかい塵って何だ！」
「どうにか引っ張り出したのよ。地獄の釜の蓋」
「じご…」
キムは我知らず一瞬意識が遠のきそうになったが、モニターには当の“釜の蓋”が既に姿を現し、ウエスギが驚愕の声を上げていた。
「タルタロス最深部の圧縮クラスタの塊だ！ しかもべらぼうな量で！ どーやって外に出した？」
「行くわよ」
彼女の責任者であるキムを始め、チームの３人、ヒェロム、ルームスタッフ他、およそ実体を持つ全ての人類が認識する事のない、それは数値と概念で構成されたにしては壮絶な光景であった。薄暮の光にうっすらと照らされた仮想空間の空を背景に、浮かび続けるトリートニスとその頭上の大岩の周囲で、目に見えない濃い大気のような物がゆっくりと脈動し始めていた。彼女の力の根源であり、忠実なその手足（本体の右足の方は未だ修復途中でぼやけていたが）であるオケアニデス、ウンディーネ、そして風の精であるシルフたちまでが加わって、大岩―“圧縮クラスタ”の位置を補正し、動かそうとしているのだ。火山の出来事を何処へか送信するための大量のデータの流れ、つまり上昇気流に当たるものが火口からは吹き上げ続け、トリートニスのいる上空でランダムな風となって吹き荒れており、「戦闘用」と呼ぶにはまだ非機能的な彼女のローブを再び怪我をさせる程の強さではためかせた。トリートニスは眉を逆立て、既に残りのレンズ雲をも壊し始めた火口を睨んだ。
「冥府の女王ペルセフォネ、第二地母神レアの加護の元に」
キムは顔をモニターに擦り付けるようにし、画面の出来事をなんとか把握しようと躍起になっていた。“釜の蓋”の周囲で形式を変化させた数多くのデータ生命体が蠢いている事だけは想像が付いたが―指令権の無い彼女らがいかにして巨大塵芥を移動させているのかは、どうしても想像が付かなかった。スートはやや不満そうにポツリと呟いた。
「…更なる部下をお持ちらしいな。トニー嬢は」
キムも、投げたようにポツリと返した。
「友情出演ってヤツでしょ？」
トリートニスの手が、叫びと共に火口へ振り下ろされた。
「頭でも打ちなさい！ この疫病神！」
オリムポス全体を揺るがす轟音と共に、“釜の蓋”―解析不能なデータ屑の大岩が正確に“ヴォルカヌス”の火山口を直撃した。その鳴動は“十二神会議”のため神殿に集まり始めていた主神たちを驚かせ、隠れ潜んでいた妖精や精霊たちは必死に耳を押さえて恐怖と衝撃に耐えた。―そして、（やや後の事であるが）長い意味不明な口上を聞かされた後、ルナ首相やチャフスカヤと握手した地球からの使者たちは、参考にと覗かせて貰ったオリムポスに噴煙のない、正常なヘパイトスの領域を見る事になったのである。だが、これが終わりでない事は関係者の全員が承知していた。それは「火山封鎖」直後に放ったヒェロムの発言に集約されていた。
「…大きな圧力釜になったもんだ。シチューにされるのがわたしらで無ければいいんだが」
激務を終え、キムが入居したてのアパートに舞い戻ったのはその翌日だった。仮の処置とはいえ、エンジニアの誰一人手を付けられなかった“火山”を黙らせたのは大手柄であり、当面切迫した危機は無いだろうとの判断もあって、一週間の出張は大幅に短縮され、有給も取れたのである。そして家に帰ったその日から数日間、キムは適当な食事と排泄の時以外決してベッドから起き上がろうとせず、泥のように眠りこけていた。トリートニスはと言うと―やはりすぐ彼の端末の防壁の中へと帰還したのだが、足のデータが壊れたままではみっともないと考えたらしく、これも修復の期間画像としては姿を現さなかった。設備の良い、簡素だが小奇麗なキムの部屋は徐々に食事屑や塵が散らかり、汗や手脂ですでに生活臭が漂い始めていた。―ろくに明かりも点けず、ひたすらゴロゴロしている間、キムは決して快適な睡眠や楽しい夢で癒された訳ではなかった。その夢想の中に現れるのは火山と火トカゲ、そして追いつけない程の勢いで破壊されていくファイル群やルナシティそのもの、最後にはテラへ向けて誤動作で発射されてゆく核弾頭だった。何度目かの悪夢から覚めた時には、回復したらしいトリートニスが既に部屋の中におり、手を腰に当て、呆れたように辺りを見回していた。それに気付いてキムは半分意識が無いまま、何か頼もうと眠り過ぎで皺枯れた声を上げた。
「…おい」
「ちょっと、これ捨ててもいいんじゃない？」
「…たるい。掃除しといてくれ… て、あそーか。お前データだったよな。何も出来んか。くそ」
ベッドの上のキムをクルリと振り返り、トリートニスは嘯いた。
「言わなかったっけ？ あたし家電くらいはいつでも自由に出来るって。なんならこれ片しときますけど。ついでに出来る用事ならやっておくわよ？ ご許可頂けるなら」
「悪い、やっといて… お前にはまだ聞きたい事が色々ある。勝手にどっか行くなよ」
「勝手ときたもんだわ。邪魔にしてた癖に」
言いながら少し手を振る仕草をして、クリーナーのスイッチを入れたトリートニスを横目に、キムは再び泥睡の澱の中へ沈みかけたが、眠る寸前にふと意識を取り戻し、彼女に尋ねた。
「…そういや 助けてくれた人、とか言って…」
「誰かって？ 想像付かなかった？ フェル・マルコ『様』よ」
ごく一瞬だけ、キムの意識は明晰に覚醒した。
「あーあのニヤケ… 『様』付けるなそんな奴に！ あいつはギリシア神話発掘して遊んでるだけの―」
ギリシア神話を思い出したせいか、その直後キムは一気に眠りに落ち、後を続ける事は出来なかった。
「で― ルナ謹製ディナーがお気に召さなかった、仏頂面の地球外交官達は？」
「まだいますよ」
“神官”や“預言者”たちの詰め所― である以上に溜まり場であり、彼らの生活空間でもある“ペリオン”内部は、テラの要求する資料や操作履歴の検証や整理の為、ここ数日騒然としていた。“アレス”それ自体の内実が公開されない以上、電脳内部の周辺状況を知っておくのは当然の権利、だというのが彼らの論調であった。（あからさまには言わないとしても）ともあれ、地球人のオリムポスへの直接のアクセスが許可できず、彼らが一般端末のサーチで納得しない以上、エンジニア連が緩衝材となってシステム内にゲストルームを構築するしか手は無いのである。こういう事態は初めてではなかったが、想定して歓迎できる訳ではなく、よって普段から準備される事はなかった。いつもは閑散としているペリオンの広大な廊下は、忙しく指示を出す“預言者”などに加え、下からアシストにやって来た“託宣”“祭司”“巫”達までもがうろつき、どこか大宴会を行っている最中のホテルの厨房を思わせた。無責任な四方山話や噂が飛び交う情景を含めて。
「何か納得できるネタを掴むまで、ここに居座るつもりらしいぞ」
「頻繁に緊急コードでアクセスするのだけは止めてくれないもんかな。大体ルナの環境は肌に合わないんだろう。飯が大味だとか、ベッドの寝心地が悪いとか… データ生命体も嫌いらしいしな」
データチップを整理し、悪戦苦闘しながら基盤にはめ込んでいた下級職員の１人が顔を上げた。
「連日フォロシネマでも部屋に流してやればどうだ？ 特級の違法サイトの一品。逃げ出すまで」
モニターに張り付いて、割り込み処理の設定を書き換えていた数人が苦笑いで振り返った。
「最近見てないな。そういえば」
「暴走フォロキャラが出るようになってから控えてるよ。シネマの最中に邪魔されちゃ色々台無しだ」
突然、中の１人が周囲に首を回し、異常がない事を確かめた後― ややトーンを落とした声で皆に告げた。
「“ヘパイトス”が機能しなくなってるのは本当らしい。やはり過剰デバッグモードになってた。“妖精”共の反乱もそっちへの対応だ。とあるフォロおたくの総帥がついに対ヘパイトスのシステムを立ち上げた」
「…サムナディン・クシャトリア？」
「おい、あのフォロ仙人―」
クシャトリアの名が出た瞬間、職員の何人かがびくっとしたように作業の手を止めた。彼の名は神官のみならず、こういう層にも行き渡っているのだった。
「買った事あるのか？」
「中古なら２、３回… それでもプレミアが付く。現役ユーザーなんて１０人を切るだろう。どこから漏れたんだ？」
「恐らく本人が流してる。意図的に、対象を限定してな。協力者を打診してるんだ」
噂話に興じていた日陰のエンジニアたちは、無言のままそれぞれの作業に立ち戻った。
「よそう。正規でないオリムポスへの介入は厳罰だ。違法サイトの比じゃない」
「テラ追放だけは勘弁してもらいたいな」
キムが最後の惰眠から目覚め、ようやく起き上がる気になった時― 彼が最初に認識したのはトリートニスが誰かと会話する声だった。ぼやけた頭では特に不思議とも思わず、何気なく聞き流していたのだが、考えてみれば彼女がキム以外の人間と断りもなく喋る事自体、キムにとっては最大の非常事態ではなかったか。ようやくそれに気付き、あわててブランケットを跳ね除けて会話に聞き入ったキムは、その状況と相手を理解して青ざめた。トリートニスはインターホン越しにポーリン・ロイと話していたのだ。
「ええ、あれから眠りっぱなしで… そろそろ目が覚めると思うんですけど」
「そう、相談したい事があったんだけど残念だわ。あなたはずっとこっちなの？ トニー」
「出張の前からです。手の掛かる人だから仕方なくて」
インターホンで変声したポーリンの笑い声が響いた。
「分かる気がする。お世話ご苦労さま、トニー。起きたら一度ペリオンに連絡するように伝えて。しばらくそちらに詰めてるから。防衛機構、“アレス”管理部のポーリン宛よ。“ディレーニー”でも受け付けるわ。じゃ」
「はい、あの… ディレーニーって？」
「とにぃぃぃーっ！」
トリートニスの質問はキムの絶叫で掻き消されたが、どの道手遅れであった。ポーリンは既にドアの前から去ったらしく、トリートニスはケロッとした顔で彼の方へ向き直っていた。
「あ、伝言の手間が省けた…」
「だっだっ誰が客の相手までしていいと言ったー！ 誤解されるだろう！ 第一データだって事がばれたら―」
「だから中へ入れなかったんじゃないの」
体重のない、風のように身軽な動きでトリートニスはダイレクトシューターの前へ跳び、「送付物あり」を意味するランプを指差した。
「ほら、ランチは取っておいたからレンジで暖めて食べたら。さすがに料理まではできないわ」
確かにこの動きさえ見れば、彼女が人間でない事は一目瞭然であったが、インターホンの顔の画像だけではポーリンに知れたとは考えられなかった。疲労のなさ過ぎる白い肌がある程度現実感を削いでいるとはいえ― トリートニスは元気そうであり、その足は元通りになっていた。ただローブだけは懲りたようで、服装は簡素な貫頭衣のような物に変わっていた。（それでも現代風俗から見ればかなり異様なのだが）―うろんとした目で彼女を見て、キムは呟いた。
「…もうちょっとなんとかならんのか。その服。原始時代じゃねーんだから」
「原始時代とは何よ失礼な！ これ以上ファッションに凝ったら電脳空間で浮くのよ。無い訳じゃないんだからね」
「あーわかった。…で。軍のポーリン嬢はなんでペリオンなんかに出向するんだ？ 何か言ってたか」
「テラの外交官が３人訪月してるらしいわよ。外交は名ばかりで実情はオリムポスの査察みたいね。オペレーター連れて来てるから。防衛機構も気苦労が多いこと。―でも、ポーリンはいい人よ。あたしの足の事知ってて心配してくれたわ」
寝過ぎてむくれた顔のまま、キムは仕方無さそうにシューターへ向かった。一体何から状況を把握すべきかしばらく迷った後、ランチのパックを取り出しながら彼は尋ねた。
「フェル・マルコが助けたとか言ってたよな」
「そうよ」
レンジ周りの塵や汚れは、明らかに彼が眠る前よりは綺麗になっていた。洗浄装置を働かせたらしい。レンジの蓋を開けてパックを放り込みながら、キムは再び聞いた。
「あの状況で、部外者がどうやって介入したのか引っ掛かってたんだ。デバッグルームの操作は基本的にシークレットの筈だ。“預言者”に対してもな」
「介入した訳じゃないのよ。彼もあたしを探してただけ… もっともあたしの認識にも志向性があるから、地下移動してなかったら判らなかったでしょうけど」
「探してた？」
謎めいた笑いを浮かべ、顎に手を付いてトリートニスは空中に腰掛けた。
「彼、あたしの“本体”に気が付いたらしいの。だから逆らえなくてね」
トリートニスの意味深な言葉に― しかし、キムは何故か逆に沈黙し、ちらっと彼女の方を見ただけで加熱終了のビープ音の鳴るレンジへと向かった。火傷をしそうなランチパックを破ると、湯気の中で、これだけは人力を必要とする皿へのレイアウトを始め― やがて意を決したように答えた。
「ペリオンへ行く。いいか、今度は着いて来るなよ。幸い有給はあと２日残ってる」
ルナシティで戦々恐々として働く人間達の都合とはまるで無縁な領域で― オリムポスの“十二神会議”は粛々と進行していた。とはいえ“十二神殿”に顔を出しているのは主神“ゼウス”、妻“ヘラ”、“ポセイドン”“アポロン”“アルテミス”“ヘスティア”といった主要メンバーと、オブザーバー的な“ヘルメス”“アテナ”くらいで、トラブルの渦中にある“ヘパイトス”“アフロディーテ”“アレス”はもちろん、娘との音信が不通になって以来ノイローゼ気味の地母神“デーメーテール”も欠席していたから、実際には“八神会議”に過ぎなかったのだが― ともあれ主神“ゼウス”の召喚によるものは十二神会議と呼ばれていた。これは人間のオペレーターを介さないオリムポスの自動メンテナンスであり、システム連携の不備や無駄手間、ストレス等を省き、より円滑にオリムポスを維持するためには欠かせないプロセスである。しかしこの度の召喚は緊急性を帯びており、神々の中にもいつもの事務的、もしくは官僚仕事的な投げやりさがまるでなく、誰の顔にも緊張が現れていた。が、無駄口が叩かれず、普段ムードメーカーになって座を盛り上げている“ヘルメス”までもが黙りこくっていたから、その真剣さとは裏腹に議題の方は遅々として進まなかった。“アテナ”は心配そうにちらりと“ゼウス”の顔色を窺ったが、自らの出した設問に答える者のいない会議の長テーブルの中心で、オリムポスの主神はいつも通りの峻厳さに見えた。
〔もう一度聞く。現在、“ヘパイトス”に声を掛けられる者は誰もいないのだな？〕
言い難そうに“ヘスティア”が発言した。
〔あの… 大神。ファイルを管理しているとはいえ、我々は正規データのルート以外は把握出来ないのです。不正なデータ生命体はその間隙を抜け、過剰デバッグはそれを追う訳ですから―〕
〔あたしはたかられたわ。蟹共にね。あれはどう言い訳するつもり〕
被害に遭った１人、“アルテミス”が鋭い口を差し挟んだ。誰に向けるとも付かないまま、その怒りは座の全員に伝わった。
〔原因は“アレス”関連に決まってるじゃない。「あの女」は最近姿を見ないけど― 直通リンクが無い筈の２人が特殊モードで交信している事は周知の事実よ。そろそろ鉄槌を下さねば手遅れになります、大神〕
〔裁こうにも“ヘパイトス”が“アフロディーテ”を囲い込んでいたんだ〕
〔そういえば人間どもが火山を封じたそうじゃないか。たまには役立つ事をしてくれる。今なら女神だけでもここに引き立てられるのではないかね〕
遠慮会釈のない“アルテミス”の言葉で堰が切られたように、“アポロン”と“ポセイドン”がそれぞれ発言した。家庭内ではともかく、こういう場では差し出口を控えている“ヘラ”までが妙に熱意を込め、主神に訴えかけた。
〔“ヘパイトス”本人は大神にさえ手を掛ける強力を持っています。あの“槌”を止められる者は誰もいない。“アレス”はシステムの大半が封じられ、かつ戦時用ですから更新するのは難しく危険。“アフロディーテ”に恨みがある訳ではないけど、事実上是正可能なのは彼女だけではないですか？〕
美の女神が主神たちの大いなる反感を買っていた事を、今更ながらに“ゼウス”は思い知らされた。しかし「オリムポスの全システムに対する公平な尊重」が“ゼウス”の判断原理であり、一方的に美術システムのみを弾劾する決定は彼には下せなかった。難しい顔で主神は重い口を開いた。
〔“アフロディーテ”に制限を掛ける事で、違法な“妖精”が行き場を失い、更に大量に蔓延するとは考えぬのか。彼女がどれ程の内部容量を持っているか… データ生命体は独立システムで、産みの親である“アフロディーテ”とシステム製作者、もしくはその所有権を買った者にしか従わぬ。一体この座の誰に沸き続ける“妖精”の処理が出来るというのか〕
一時は勢い込んで盛り上がりかけた会議の場は、再び憂鬱な沈黙に包まれた。―ようやく“ヘルメス”が口を開いた。
〔新たに発生したサラマンダーの問題もある。あれの行動半径と攻撃対象は無差別だ。まだ数が少なく、動きが遅いから助かっているが… いずれ数が増える。進化もするだろう。もはや“ヘパイトス”は“アフロディーテ”の乱行とは別の次元で動いているとしか思えない〕
〔そうですね〕
考え抜いた末らしい口調で、“アテナ”が同意した。
〔“槌”はオリムポス全土を総括する、いわば情報制限のない免罪符です。扱うシステム側の機能限界で抑制されているに過ぎない。それを手にする者が暴走した以上、“槌”の能力もどこまで開放されるか分かりません。おそらく、“人形”の進化は、“ヘパイトス”の意図した所ではないのです。デバッグの乱用が生み出した副産物… なら、“人形”にサラマンダー以上の進化が起こるのも理の当然。最終結論としては、なんとかして“ヘパイトス”の手から“槌”を奪い、それ自体の構造を書き換える事です。さもなくば、遠からず彼の人形達はこの地を全て焼き尽くしてしまうでしょう〕
ぞっとするような知恵の女神の予言に、“ゼウス”を除く神々は凍りついた。彼女はこれであるから主神から頼りにされ、かつ他の神々に煙たがられているのである。―“ポセイドン”が尋ねた。
〔どうやって奪う。槌が振られた瞬間、大神といえども内部が歪むだろう。ましてや現在の“ヘパイトス”は“ヴォルカヌス”の火口の奥― せっかく封じた蓋を外し、何者かがその中へ潜入すると？〕
〔―それは〕
知恵の女神が口ごもったその時、大事な会議を無視して悲嘆に暮れていた筈の地母神“デーメーテール”が、歓喜の叫びと共に突然会議場に駆け込んで来た。
〔返って来た！ 私のペルセフォネが現世の大地に帰って来ました大神様！ ああ、こんな事は一体何年振りでしょう？〕
嬉しそうなのは“デーメーテール”１人だけだった。驚愕と共に神々は全員腰を上げ、青ざめて地母神の方を見た。
〔…冥府の女神が？〕
何か叱られでもしたように、しゅんとしてしまったトリートニスを１人後に残し、キムは再び「上」へと昇った。―ペリオンはテラの使者を迎えてから人員の出入りが激しくなり、キムが前回訪れた時に比べると格段にゲストチェックが緩くなっていた。彼も名前と所属、パーソナルコードを打ち込んだだけで（来館目的や面会相手をデータ記入する事もなく）入館を許可されてしまい、「いちおーＶＩＰが滞在してるのにこれはなんだ」と逆に不安に駆られる有様だったのだが― 兎にも角にも彼は（ポーリンではなく）早急にフェル・マルコに再会し、確認せねばならない事があったのである。今ルナを襲っている騒ぎの火種、根本原因に気付いている人間はいくらもおらず、人間以外を含めても３人程度だろうと彼は確信していた。そのうちの１人は雲の上の存在で、キムがオリムポス管理部直轄機関に籍を持っている今しか（いずれトニーの件で追い出されるだろう…と彼は考えていた）面会するチャンスは有りそうでないのだから仕方がない。二度目という事もあり、事務手続きが速やかに終了した見返りという訳でも無いのだろうが、キムは今度は大部屋の（地球の出勤時刻の駅のような状態の）待合室に通され、なおかつ一時間以上所在もなく待たされ続けた。その間ポーリンにも来館連絡は送ったのだが― こちらも忙しいらしく、返事は中々返って来なかった。なんとか椅子だけは確保すると、キムは周囲の会話を聞くともなしに聞きながら、組んだ腕を枕にして長い事ぼんやりと天井を眺め続けた。
「ギリシア神話…」
キムの記憶にあるそれは、幼い頃フォロ・ジュブナイルやダイジェストで見ただけの拙い、不完全な知識に過ぎなかったし、それは流れては消える大量の情報に思考を忙殺されながら生きている、大半の月人のレベルに合致した程度のもので、おそらくはこれからもそうであり続けるのだ、という事は確かだった。それでも刷り込まれたように脳裏に染み付いて離れない、一つのイメージがある。―明るい古代ギリシャの空と海。人間よりずっと人間臭く、豪放磊落かつ己が本性に忠実に生きる神々。それがどこかで一転する。時として、そして後半になると全般的に物語に暗い影がのし掛かっていく。宿命的な悲劇の匂い。神々の争い。破滅していく文化― 一体この恵まれた太陽の地に何が起きたというのだろう？ 不足など無いのに、なぜ人々は不幸に堕ちるのか？ 彼には納得が行かぬまま、物語は「そして古代ギリシア文化は滅び、ローマ帝国が支配した」で終わる。我々のルナが古代ギリシアに相当するなら、ローマ帝国は地球か。いずれルナは滅び、もしくはテラに接収され、支配されたまま終焉の時を迎えるのか。それとも―
「侵入者？」
「違う。データ生命体だ。本部圏内に出るなんて通常ならあるわけが―」
「テラ外交官目当てじゃないだろうな」
「まさか― 何のために！」
不穏な噂話に阻まれ、キムの随想は中断した。いわゆる違法データ生命体が出現したようなのだが、少なくとも見渡す限りの彼の周囲にそんな影はなく、（いたとしても端末一つなければさすがに打つ手がない）、噂している当のエンジニア本人も、確信が持てない様子で不安げに辺りを見回していた。今日の目的をかんがみ、やはり静観、と決め込んでキムが椅子に深く座り直したその時― 非情警報らしきサイレンがホール内に轟き渡った。
「炎背負ってる！ デバッグドールと生命体の複合システムだ。全員所属部署に戻れ！」
走り込んで来た男が叫び、たむろしていた常勤、非常勤の職員たちはバラバラと走り始めた。「炎」という一言が、キムに問答無用で事態の原因を悟らせた。彼もまた、どこか入り込める部屋を探して人波を掻き分けている最中、突然降って沸いたようにキムの面前にフェル・マルコが出現し、待たせた非礼も詫びず大声で話し掛けてきた。
「キム・ウォジ！ サラマンダーとは戦った筈だね？ 手伝ってくれ。火山を封印した君なら可能だ。今地球人に“ヘパイトス”の件を知られる訳にはいかない―」
ほとんど当たり前のようにキムの腕を掴み、メインルームへ連行しようとしたマルコの手を一瞬振り解き、キムは叫び返した。
「その前に約束してくれなきゃ御免ですね。後で俺には全て公開するって。この騒ぎの根本原因、それにトリートニスの正体なんかも」
「トリ…」
絶句するマルコに、キムはついに自らの最大の秘密を暴露した。
「あんたは全部ご存知なんでしょう。修理したんだから。トリートニスは今俺の部屋にいる… “ヴォルカヌス”を封じたのはあいつです。俺の力じゃない」
→９に続く