トリートニス・パラダイム 月は無慈悲な夜のＫＯ ５
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暗闇に明かりを灯せば、明るくなるというのは誤解です。
正確には「光を反射する物体」のみが明るくなるのです。
宇宙がそうであるように。
―とある教科書
５
“アルテミス”は苛立っていた。
彼女は月の女神であると同時に、狩猟の神であり、ルナシティ運営システム全てにその“矢”を射る権限を持っていた。すなわち、ことシティの問題に関しては他の実行指令の全てに先んじて彼女の指令が優先され、かつ、短時間で処理しなければならない責任と義務を担っているという事である。要するに―“アルテミス”はオリムポスで最も短気な女神であった。機器の動作情報の一部が彼女の元に届かず（彼女の目から見ると、確かに“矢”は命中したのに、猟犬どもが獲物をくわえず、手ぶらで帰って来たが故に）、彼女は何度も討ち漏らした獲物に同じ“矢”を放たねばならず、ついには他の機器への“矢”までがタイムラグで外れ始めるに至って、〔どういう事なの、これは！〕―少々性急な非常事態モードに突入したのである。彼女の双子の兄弟、地球データ管理システムの“アポロン”は、構造が同じなだけに、こういう場合は静観してフォローする以外対処のしようがない事を熟知していた。彼は、地球へ報告せねばならないルナシティの機器データが、定時より数秒前のものである事に気付きながら、数値を修正し、時刻通りの状態として地球へ送信した。これは不正処理である。しかし、こと地球への対応だけは、数学的な正確さよりも政治的な安全性が必要とされていた。〔―また、つまらない質問の山や、原因調査までおっ被せられたらたまったもんじゃない！〕彼には“デルフォイの神託”を人々に告げる責任があった。すなわち、ルナとテラの共同開発システム「デルフォイ・ハウス」と呼ばれる衛星に、双方に公開が可能なデータを“神託”として送信する義務が。陰徳と公開のバランスは難しく、これは彼にしか判断の権限のない重要事だった。一歩間違えて月と地球が緊張状態に陥る事は、両星とも望んでいなかった。地球発祥人類の、全ての情報の根源―この時代でも“アポロン”は紛れもない太陽神だった。月に住み、古代と同様に地球の周囲を回る指導者だったのである。
〔だから… 二度目は許されない―〕
“アルテミス”の仕事を邪魔したのが誰なのか、彼にはおおよその見当が付いていた。そしてその神へのアクセスは、現在全ての方向から封印されている筈であった。
「トニー！」
ウエスギに怒鳴られながら、デバッグルームに、文字通りランニングで駆け付けたキムは、メインデスクトップで騒いでいる聞き覚えのある女の声に気付き、彼の前に立った室長のヒェロムをさっとすり抜け、他のスタッフへの挨拶すら省略して、いきなりメインデスクに両腕を付いた。初見のスタッフ達のみならず、ウエスギもまた、いつもすっとぼけて本音を見せないキム・ウォジの、感情丸出しの焦った姿を初めて目にしていた。
「ハイ、キム。遅刻したわね。あたしがいなきゃどうなってた事か」
「あたしがいなきゃ、じゃねー！ 何でそこにいるトニー！ あれ程付いて来るなって言ったろう！」
「あたしがアルテミス様とよもやま話して気を逸らせてなかったら、今頃全ルナシティは停電よ。少しは感謝して欲しいわ」
「何が感謝だ！ そいつはお前のお友達か。同類か。だったらちったー性格直せって言っとけ！」
勝手に室長の場所を分捕って内輪喧嘩を始めたキムの後ろから、電信柱程度（月にはないのだが）の存在感を持つ本来の室長が声を掛けた。
「あー、キム・ウォジ。忙しい所誠に恐縮なんだが、私はここの責任者のヒェロムと言ってね。一応名前くらいは記憶しておいてくれ」
上役に尻を向けていた事にようやく気付いたキムは、血の気の引いた顔でゆっくりと振り返って会釈した。
「…これはどうも」
「彼女の言ってる事は嘘じゃない。一体どんな手を使ったのかは知らないが、トニー嬢は“アルテミス”の機器確認スキャナ―“矢筒”の配線を一部エンドレスにし、そこに別データを流し込んで女神が落ちるのを防いでいる。腕っこきのシステムプログラマやデバッガーでも半日は掛かる作業を一瞬にね？ 余程優秀な助手らしいな」
「はいその… まあ」
しどろもどろになっていくキムを、ウエスギは非難するような白い目で見続けていた。キムが提出したプロフィールでは、確かに彼は「独身」の筈だった。そしてヒェロムは上司風を吹かせる事もなく、丁重に（これもそう見えるだけかも知れない）キムに述べた。
「私個人は、トニー嬢に感謝しているよ。何故パーソナルコードのない部外者がここにアクセスできたかも、しばらくは問わないでおこう。本格的な処理もこれからだしな。キム。―ただし」
「はい」
「給与は二人分は払えんぞ」
ほんの数秒間、ルームの人物たちは全員、電池の切れた玩具のように止まった。―キムはその中で一番に立ち直り、居住まいを正してもう一度先程のデスクに向かった。
「本格的な処理に入ります。室長。―ご許可を貰えるなら」
月―ルナシティが極力、地球を刺激しないように細心の注意を払い、神経をすり減らしているのとは裏腹に、地球―テラ統一総合政府は常に月を監視し、要求し、いつかその巨大な情報システムを完全に掌握する事を夢見ながら―必ず軍を背景に置いた体勢で、情報交換と商取引を続けていた。それも道理で、いくらルナ側に漏れないようにブロックされているとはいえ、地球の経済、通信、交通等のみならず、あまりにも増えすぎた軍事機密データの類もまた、３割程はルナの“アポロン”が管理・制御を司っているのである。ともあれ、地球上にいまだ乱立する多数の国家同士の諍いに関しては、ルナの立場は完全に中立だった。彼ら（地球人）の目がおのが同族にのみ向かっていた時代には、月は確かに空から愚かな人類を公平に見守る、慈悲深い女神に見えたのである。そして、地球国家同士の度重なる紛争と暴力、不信、貧困の格差といった不幸を乗り越え、ようやく地球上が沈静化し、地球統一政府が月開発のために便宜上設けられた「お飾り」でなく、現実に機能し始めた時代に当たって―はたと気付けば、ルナシティはそれ自体が独立した、強権を持つ一大国家にのし上がっていた、という訳だった。地球全土を覆い尽くすネットワーク、これらはもう通信衛星なしには機能しなかった。そして人工の「衛星」には常にハッキング、物理的攻撃、あるいは使用権を巡る醜い地上の争いがついて回り、トラブルの多さとメンテナンス経費だけで、幾つものプロジェクトや企業が倒産した。地球は古代人がそうしたように、ルナシティ―月に祈り、自分達の平和と未来を託すより他なくなったのである。自らの周囲を巡る、たかが地球の４分の１程の大きさの隕石に。
その上いざという時、（これも地球人が後から「はた」と気付いたのだが）軍事的に圧倒的に有利な立場に立っているのは、実はルナシティの方であった。ロケット一つ打ち上げるにも、地球側は常に加速度 9.8 m/s^2（メートル毎秒の２乗）の重力と、それよりもっと恐ろしい大気の重圧と戦わねばならない。なのに、月のそれは６分の一、燃料費はそれ以下、しかも大気摩擦の高熱による兵器の劣化もなしに。月の近辺には、移動させ建築資材とした鉱石を含む小惑星（単に「宇宙鉱山」と呼ばれている）がまだ大量に浮かんでいた。その幾つかを冗談で引力圏に蹴り込んだだけで、地上は壊滅するかも知れなかった。―なんという事か！
それでも―地球は総力をもって月の動向を監視しながら、表向きはにこやかに取引を続けざるを得なかったのである。社会は常に「こうすれば良くなる」という方向ではなく、「こうすれば経費が安くなる」という方向しか向かわないので。
地球衛星の「ルナ監視システム」の一つに、月面軍事システム“アレス”の動作情報が流れ込んだ。
それは内部通信の一種で、特に警戒するには当たらないと判断されたが、送信データをチェックした地球軍の月情報解析員は、少し引っ掛かる所があったので記録としてレポートに記載した。見慣れない暗号化の痕跡があったのである。有事には、“アレス”はオリムポス全土の指令を差し置いて動作する権限を持っていた。重要かどうかはともかく、動きには目を配らねばならない。加えて、この解析員はいささか几帳面な性格であった。
デバッグルーム全員の注視を浴びながら、キムは（不本意ながらトリートニスと共に）仕事を開始していた。まず“アルテミス”を平常運行に戻さねばならない。数字だけでは理解できない、女神内部の状態をトリートニスが詳細に観察し、モニター前でキムがそれに指示を出す。深海調査のダイバーと司令官に似ていた。
「何を言ってるって？」
「軍関係の機器情報がおかしい… てーか、“アレス”に無関係な筈のデータに軍のフラグが付いてるって。しかもあちこちに散って… 軍フラグはデータの無条件ロックでしょ？ だから整理できなくなったんだわ。全てフラグを解除するか、さもなきゃ『全部捨てるわよ！』―ですって。で、どうします？ 捨てれば一気に解決するけど」
「―だそうですよ室長。捨てさせますか？」
ヒェロムはさすがに少し慌てた様子で言った。
「ばっ馬鹿。まず“アレス”を検証して―」
「捨てて結構ですよ！ 完全削除はまずいけど。こちらでは動作の予定はありません。トラブルの回避が先でしょう」
途中で割り込んだ女の声に、キムは聞き覚えのあるアクセントを感じた。
「…あれ？」
「奇遇でしたわねキム。覚えていて下さった？ ポーリンです」
「ふーん知り合いが多いのね、キム。女性には」
後で科白を追加したのはトリートニスである。キムの平静さは再び崩れた。
「ご近所の人だ！ とにかくまず“アルテミス”に問題のあるフラグデータを放棄させろトニー。こっちからも掃除する。ゴミ捨て場を分割して一時保管だ。いいな？ 彼女は何か言っているか」
広大な薄暮の電脳空間の中、トリートニスは雲のように宙に浮いたまま、悩める“アルテミス”の姿を見下ろしていた。月の女神は“兜”―軍の証票を付けた小鬼達にわいわいと取り囲まれ、お手上げの状態だった。正常に戻った機器データ―兎や鹿などの獲物―もすでに山積みになっていたが、小鬼達はそれすらも齧り付き、突き崩し、かと言って再び弓矢で狙うとサッと逃げ散る。質はかなり悪かった。
〔アルテミスさま…〕
〔誰がアレスなんかに無条件動作の権限なんかやったの！ 二度こんな事態に陥るなら、アポロンに頼んで全部焼き殺すしかないわよ！ いい？ トリートニス、こいつらを全部なんとかして。大神には人間の処理と報告しておくから〕
トリートニスは、何か念じるようにしてゆっくりと腕を上げた。
〔“河”を流してよろしいですか。アルテミスさま、お体の具合は？〕
“アルテミス”は、少女特有の鋭い眼光で、薄金色の髪を振り乱しながら振り返った。
〔あたしを突っついたりさせたらただじゃおかないからね！〕
女神の怒りを避けるように、しれっと目線をそらしながらトリートニスはキムに報告した。―会話の概要は、人間にはこのように伝えられた。
「キム、ともあれ不正データのみ分断して解放させるわ。“空”―仮想メモリキャッシュに入るからそっちで分類して。多少は逃げ回るわよ。“アルテミス”本体には異常なし。多分ね。本人の弁だけど」
モニター前で声を聞きながら、画像としての姿を現そうとしない謎のオペレーターに、人間たちの興味は集中していた。
「まるで本当に会話してるような物言いをするな」
半ば不審そうに感嘆しながら、ウエスギが言った。
「してるんだろ― じゃなくて。全員で掛かってくれ。俺一人じゃ手が足りない。フラグサーチと削除―あるいはデータ生命体も混じってる。気を付けろ。高等なヤツじゃないだろうが」
「彼女はどうやって、それを―」
思わず質問するヒェロムに振り向き、キムは真面目な顔で返した。
「企業秘密だそうでね。教えてくれないんです」
人間のスタッフ達はそれぞれの席に付き、“アルテミス”近辺の仮想領域アドレスを検出し始めた。ウエスギも（キムの知る限りでは）椅子に座り、初めて本格的なオペレートを開始していた。キムはちらっとウエスギを振り返った。
「あ、体力勝負だけじゃないんだ。ウエスギ」
「あとで締め上げてやる」
電脳空間内には、無数の業務に対応できるだけの十分な仮想空間が設けられてた。時々閃く稲妻は“ゼウス”の指令であり、降り注ぐ太陽光は“アポロン”の安全確認がオリムポス内に行き渡っている印であった。“十二神領域”の地下には更に広大な“巨人族領域（ティターンズエリア）”が存在し、周辺にはその他の神々―“デュオニソス”“ハデス”の他、交通神“ヘルメス”の母、ルナ各地の諸状況を総括する“マイア”、割り込み処理を担当する運命の３女神“モイライ”、掟の女神であり、オリムポスとルナシティの大原則を司る“テミス”とその娘、政治関連システム“ホーライ”、そして不可触領域“モンスターエリア”と、ロストデータの最終処理場、地獄“タルタロス”へ続く穴―まさに、オリムポス内部はありとあらゆるジャンルに対応できる大宇宙を形成していた。そして、この宇宙の最も外側には、世界を取り囲んで、どうどうと流れる大河―全ファイルを管理できる、神出鬼没の移動型システム“オケアノス”とその使い、“オケアニデス”たちが常に存在し、システムの大地を守護していたのである。―何処からかごおお、という滝の音のような唸りが響いてきた。トリートニスの差し上げた腕に向かって、無数の精霊―“オケアニデス”たちが集合しようとしているのだった。それは（視覚化できる者の目から見れば）遠目に見ると天を流れ下る大河であり、部分に目を向ければ波の一つ一つが白、水色、もしくは半透明にひらめく女性型の意志ファイル（データ生命体の元となった自立システム）で出来上がっていた。―差し上げた腕を“アルテミス”に向かって振り下ろし、同時にトリートニスは叫んだ。
〔お伏せ下さい、アルテミスさま！〕
〔あたしに忠言は無用です！〕
瞬間、凄まじい“水”の流れと轟音が“アルテミス”を包んだ。天の河はトリートニスの指示の元に流れ下り、月神にまとわりついていた不正フラグデータの小鬼たちを全て弾き飛ばした。そして不条理な引力にでも引かれるように、河の精霊の奔流は遡って再び天へと昇り始めた。流れに巻き込まれて、全てのデータの塵芥（クラスタ）と小鬼たちもまた空へ昇った。
「―来たぞ！」
状況を見守る態勢だったデバッグルームが、にわかに動き出した。メインモニタと各自の端末ディスプレイに大量の数列が流れ始め、キムを筆頭にオペレーターの全員が慣れた高スピードの指でキーボードを撫で、空間に持ち上げられた“塵”を次々に分類し、保管区域へと移動させていった。一見するとハイテクノロジーな作業に見えるが、実質的には汚された河の「溝さらい」と同質の仕事であった。―電脳空間で“小鬼”の姿をしていたフラグデータは、こちらのモニターでは隠しファイルの一種であったり、正体不明の実行ファイルとしてその正体を現していた。時として、周囲とは比較にならない大きさのファイルが出現し、これは彼らデバッガーの手をすり抜け、自動的に次々とアドレスを変えて逃げ回った。トリートニスの予告した、構造の単純なデータ生命体の一種らしかった。
「“アルテミス”は！」
「正常なデータ送信が始まりました。まだ途切れ途切れですが。フラグの分析は？ 室長」
「後にしろ。“アレス”の状況確認が先だ。逃げてる虫たちは追尾しといてくれ。―やれやれだな！ 原因はおそらく、これ以前の何処からかの“アレス”への不正送信だろう。多分ここと“アルテミス”のリンクのトラブル… ロイ准将？」
「“アレス”のデータが漏れてるわ！」
ようやくほっと息を付きかけたデバッグルームは、ポーリンのこの一言で音もなく凍りついた。この事件は、最も警戒すべき状況へと進展しつつあったのだ。―キムは肘を突いて問いかけた。
「どういうこと？ ポーリン」
「“アレス”はその性質上、あらゆる動作の履歴が残るようになっています。コピーや送信は特に… 機密事項には“鎧”と呼ばれる属性が付与されて、ステップを置かないと移動できないようになってるの。誰かが機密事項を送信した… それに関与したファイルデータには全て、緊急優先性を示す“兜”のフラグが付き、転移して“アルテミス”の送信を詰まらせた… 違うかしら？ ハッカーの外部操作ならこの動きはありません。オリムポス内部の処理か―さもなければ手を貸している者がいるんです」
デバッグルームは静まり返った。“ヘパイトス”の暴走を止める方向にばかり頭が向いて、彼の本来の「不正データ排除機能」が落ちている事に注視が足りなかった事を、ルームの全員が思い知らされていた。
「“ヘパイトス”が正常なら…」
「正常化するためにウエスギはその男を連れて来たんだろう。ともあれチームは分けるしかない。今後の“アレス”の周辺調査と、火山“ヴォルカヌス”の対策だ。オリムポスに全サーチを掛ける“ヘパイトスの槌”は、現在妖精どもを追うので手一杯になっている。溶岩を取り除いて、“槌”の操作権をこちらに奪い返すんだ。対ハッカー用の“デュオニソス”まで持ち出せばシステムの傷が深くなる。まだ外敵の仕業かどうか分からんのだからな。優秀な人材も増えた事だし、きっと対処は可能だろう」
「あの…」
少々不安に駆られ、キムは言葉を挟んだ。
「なにかな？」
「ヒェロム室長。トニーをアテにしてるんなら、あまり保証はできないと思いますが… 彼女はなんというか、その、おそらく気紛れで手を貸しただけだと―」
「君のアシスタントじゃないか」
ヒェロムはニッコリと笑い、（珍しく、あからさまに「笑顔」だと分かる笑い方で）キムの背をどやしつけた。
「あ、アシスタント？」
ルームの中で、キムとトニーの関係がどう受け取られていたか―周囲の目つきから察し、彼はようやく気付き始めた。目眩が起きたらしく、心なしかキムの視界がぐらりと揺れた。顔を（おそらく本名も）明かせないアシスタント。ルームにアクセス可能な程、キムが個人情報を教えている女。それは―
「ランクは知らんがシステムにも精通しているし、君とのコンビネーションも最高だった。他の奴と組ませてもこうはいくまい。私はこういう自然発生的な人間関係を尊重する男だよ」
ウエスギが口を挟んだ。
「俺も手伝ってやる。“ヴォルカヌス”の方に回ってくれ。他の奴は何度も痛い目にあって、少々疲れてるんだ。他の通常業務だってあるんだしな」
「ちょっと残念… 恋人が、そりゃいるわよね。素敵な人だもの。いずれうちのアパートの方で紹介してね」
ポーリンまでが笑顔で輪を掛け始めた。―キムは慌てて椅子から立ち上がった。
「ちょっと待ってくれ！」
しかし、周囲の空気に押され、キムはそれ以上叫ぶ事が出来なかった。笑顔の沈黙に勝る重圧はこの世にないのである。
“アフロディーテ”はただ一人、彼女の子供のような存在である無数の“貝”の中で、痛めつけられた哀れな“妖精”たちの治療を行っていた。
正規のデータ生命体には「飼い主」がおり、何度も使われるうちに傷付き、汚されて弱っていく“妖精”たちをある程度はメンテナンスし、修復してやっている。しかし不法に作られた者や、タイプが古くなった、もしくは「飼い主」の気が変わった―という身勝手な理由で捨てられた“妖精”をメンテナンスする者は、 “アフロディーテ”以外誰もいないのだ。彼女は美の女神であると同時に、愛の守護神でもあった。ただのデータであるが故に安直に「消去」され、安直に新しいものが作られる、不幸な“妖精”たちの宿命は、海の泡から生まれたという女神のはかない出自と被さるものがあった。
〔わたしたちはデータの集積… 「生命」としての権利も尊厳も、おそらくは永久に認められない―〕
“貝”の中では、角の取れた略式の姿に変化して、数多くの“妖精”や“精霊”が眠っていた。外部への反応パターン、記憶、学習、キャラクターとして与えられた傾向性―その積み重ねを人間は「心」とは呼ばないだろうし、その消滅を魂の消滅―「死」とは捉えない事は確かだった。それは実際、人間が「生命」と呼ぶものからは遠い存在だったかも知れない。しかし彼らには（神々も含めて）確かに感情があり、できるものなら生き続けたいという切ない願望があった。その想いは女神をして、彼女の愛人の一人に「妖精たちをヘパイトスの暴挙から守る、強い力」を求めさせたのである。その愛に満ちた行いが、いずれ神々の城、ルナシティそのものに危険をもたらす事など、女神には予測だにしなかった。そもそも不死の愛の女神に、人間がプライドと身の安全を秤に掛けて行う「戦争」への理解など、求める方が無理難題であった。彼女はただ、この世界で“ヘパイトス”の溶岩に犯されないものは軍事関係の指令だけだという事を知っていたに過ぎない。
使いに立っていた、女神の息子とされる“エロス”が、その羽を羽ばたかせて“アフロディーテ”の元に戻って来た。
地球統一総合政府（ＥＵＩＧ）の会議室では、何度も持ち出された議題―ルナシティからの一部情報の撤退―の蒸し返しが行われていた。それはフォロ会議ではなく旧式の実働会議であり、全員の発言は即時にテラ統一言語に翻訳されるが、発言者の顔がモニターに逐一（困ったことに前回の発言のデータ等の参考資料を含めて）表示される、といううっとうしいもので、スタミナと時間を消費する割には進展が遅い、評判の良くない形式が採用されていた。テラは常に効率より、威圧による主導権争いを優先する。地上における全てのトラブルをオリムポスのシュミレーションに掛け、政治家を介さずに結論を出せば、瞬時にして（莫大な開催経費を払わずに）答えが出せる事は誰でも知っていたが、そのやり方が現実に施行された事は一度もなかった。地球人の大半はルナの「神」など信じていなかったし、その逆に主導権がルナに奪われる事は地球の滅亡に直結すると、多くの人間が固く信じていた。悶着の解決方法として月に棚上げされている地球情報を奪還したい、ただしあくまで自分の手に―それぞれの国家区分のみならず５０を越える政治区分を持つ現在、その願いが誰か一部の人間の為に叶う事はイコール政治バランスの崩壊を意味した。各区分と国家の代表者たちは慎重だった。―しかし、野心は誰も捨てていなかった。
現在の地球上政治区分中、最大規模を誇る地区の代表者が答弁に立った。
「“アレス”だけなら恐ろしい事はありません。結論として平和協定に反する指令では動作しないのです。だがそれも、“十二神会議”と呼ばれるオリムポスの総合判断に基づけば左右されかねない。最終結論はメインシステム“ゼウス”と、地球データ担当“アポロン”の合議によって成立する。こちらの都合は加味されない。この状況それ自体が危険なのです」
「しかし…」
現在、統一政府の議長席に座っているのはフラゲアという男だった。淡泊で最も会議に威圧感を与えない、という理由で選出されたにも関わらず、代表者達は後に、この男がいかに自説を曲げない頑固者かを知らされた。その席をなかなか人に譲ろうとしない、という点でも、彼の特性は遺憾なく発揮されていた。あるいは「自説」以外は理解していないのかも知れなかった。―彼は答えた。
「月のコンピュータシステム以上に、公正な判断を下せる機関はない、というのが現在までの結論です。あなたは公正の基準はどこにあるとお考えですか？」
「地球上の安定です。ルナのそれはあくまでそれに付随するものです」
かつて彼の祖先の民族がそうしたように、この政治区分の代表者もまた主張を譲らなかった。
「“アレス”に不審な暗号化の痕跡があった、という話を御存知ですか？」
議場は、さすがに少々どよめいた。
「なぜ、それを―」
彼は取って置きのスクープを出し惜しみするように、得々として―なおかつ小出しに喋り始めた。
「まだ、詳細は分析中ですのでお知らせできません。ある種の誤動作かも知れませんからな。が、誤動作ならば問題は更に大きくなるのはお分かりでしょう。我々が月に払わねばならない莫大な情報管理費、これを削減するためにも、我々は月の使用権か、情報の一部を取り戻し、いずれオリムポス全土に検証スキャンを掛けるべきでしょう。世界の主導権は“オリムポス”、ルナ政府、そして統合政府の順です。月を中継して火星を開発する時代までに、この順位を逆転せねばならない事はご承知の通りです」
各国の代表者は顔を見合わせた。フラゲアは指を組み、もう一度居住まいを正して男に問いかけた。
「監視情報の独占は協定により禁じられています。公開していただけるんでしょうな？」
「ら… ラブレターだあぁ？」
休憩のための仮眠室（それでも個室で、安いホテルくらいの内装とルームサービスが付いている）で、キムはシステムノートを開いていた。トリートニスはさすがに出現を控え、普通の電話のようにこちらに通信して来たのだった。いきなりの仕事と職場案内で勤務時間を大幅に超過し、やっと許可の出た貴重な休憩時間だというのに―休憩にはなりそうもなかった。
「そうよ」
ディスプレイの中の平面のトリートニスは、何故そんな事も分からないのか、という顔でキムを眺めていた。
「今の人ってほんとにギリシア神話を知らないわね。アフロディーテの浮気相手の筆頭は、古代から軍神アレスに決まってるじゃない。いわゆる不倫のお手紙のやり取りをしてたのよ。何かの業務通信みたいのも混じってたけど。“ヘパイトス”が暴れてる状況じゃ、ギチギチに暗号化したり軍フラグをつけなきゃ会話一つできなかった訳だわ。オケアニデスの若い子が喜んじゃって… あ、口止めはちゃんとしておいたからね。大丈夫」
大丈夫な部分など、どこ一つ取っても存在しなかった。蒼白になってキムは天井を見上げた。人の言葉を喋らない、癒しのために設置されたフォロキャラクターの小鳥たちが、味気ない仮眠室の天板を無邪気に飛び交っていた。決して地球政府は信じないだろう。のみならずウエスギも、ヒェロムも、現在ルナシティでキムと面識のある人物の誰も… 「あの男」を除いては。
→６に続く