トリートニス・パラダイム 月は無慈悲な夜のＫＯ ７
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愛とは、無償の行為である。
よって、時として完全に忘却される事がある。
―とあるルナ文学者
７
ごく僅かな間―トリートニスは完全に「意識」を失った。
神格である彼女は、ただの“妖精”には決して持つことの出来ない強力な「自己修復機能」を備えている。しかし、その最大限のフォローをもってしても回避不能な災いが、彼女の足元で起こっていた。―気が付くと彼女は“ペルセフォネ”のごく近辺まで落下しており、火トカゲはその白いふくらはぎを燃やし始めていた。
〔トリートニス！〕
“ペルセフォネ”の叫び声で、彼女はようやく空洞の闇の中、意識を取り戻した。治療のための膨大な修復ファイルが彼女の体内を流れていくため、自我部分―すなわちデータの自己確認作業が停止していたのである。正気に返ったトリートニスが、冥府の女神に始めに叫び返した言葉はこれだった。
〔あたしをデリートしないで！ デバッガー達のアクセスも！〕
〔もう遅い― せめて気絶しないでくれてたら〕
〔じゃあこの右足だけ！ トカゲ野郎と一緒に圧縮しちゃって下さい！〕
次の瞬間、トリートニスは“ペルセフォネ”の元からはじき飛ばされるようにして再び上空へ舞い上がったが、その右足は失われていた。“ペルセフォネ”の手元には、分断されたトリートニスの右足のデータが、半ば足に食い込んだままの、既に炎を失って黒ずんだ火トカゲを伴った無残な姿のまま舞い落ちた。冥府の女神の掌の中で、残骸は紙切れのように平たく変わり、ついには完全に二次元化して自動的に折り畳まれた後、闇の壁の中の棚の一つへスルスルと収まっていった。呆然としたように、彼女は呟いた。
〔足… なくなっちゃった〕
―“なんだって？ 文字が化けてる！”
独り言のつもりだったトリートニスの目の前に、キムの通信紙片が出現した。突然、彼女は昂然と頭を上げると、冥府の上空へ向けて怒鳴った。
「足が一本なくなったの！ それがどーかした！ あのトカゲは“ペルセフォネ”しか封じられないわ。なんとか彼女の元へ追い落とすのよ。いい？あたしは足の治療にしばらくかかるから！」
「…足がなくなったって？」
ルームで火トカゲから逃げ回っていた火山チームの４人は、その意味も理解できないまま凍りついた。直後、皆の視線はキムに集中した。急いでいたのかそれとも面倒になったのか、トリートニスの極秘事項は文字ではなく、音声となってチーム全員に鳴り響いてしまったのである。じっとりと汗をかいた事を知られないよう、キムはごく事務的な口調で述べた。
「―ま、あいつはいろんな攻撃手段を持ってるって事ですよ。“足”はその一つでね。ハッカーに近い手口なもんでご内密に。そんな事より“ペルセフォネ”の―」
「そうだ。“ペルセフォネ”に火トカゲを削除させればいい。特定できるか？」
ウエスギの一言で、全員の思考はあっさり足の件から逸れた。クアンがむっとしたような声で答えた。
「駄目よ。自力で次々と微妙に筆頭ファイル名を替えてる。“火トカゲ”って名称は正解ね。燃えてるみたい」
「ワイルドで指定してさらえちまえばどうだ。その辺一帯―」
「危険だろう！ システムと噛んでるんだぞウエスギ。お前のやり方は乱暴過ぎる」
「あー、少し消火したらどうかな」
「何だ？ 火トカゲだからって！ 出来たら誰がこんな苦労―」
背後から拍子の抜けた合いの手を入れたのは、室長のヒェロムであった。蜂にたかられたような精神状態に陥っていた一同だが、上司の発言を最優先させるだけの理性はかろうじて残存しており、場は一瞬静まった。低い声でスートが聞き返した。
「…どうやって消火を？」
「水― つまり別ルーティンに取り込めば、トカゲの表面は流せるんじゃないか？ 巨大ゴミ捨て場なんだから容量はあるだろう」
ヒェロムの発言には、そのテンポのずれた語調とは相反する論理性があった。トリートニスが無事である事に安心したのか、キムはマイクに向かって横柄に呼びかけた。
「トニー、さっき“アルテミス”を洗った水！ もう一度やれ」
火トカゲ以上に怒ったトリートニスの罵声が、再び公的な音声で返ってきた。
「か弱いオケアニデスの女の子たちに火傷しろって言うの！ 蟹野郎だから出来たのよ。キム、あんたって女性へのデリカシーゼロ？ 大体ルーティンが下手にペルセフォネと噛んだら再起不能になるわよ！」
そう叫ぶトリートニスの状態はと言えば―誰にも見えないのだが―実は地獄への落とし穴の頂点に浮かびながら、苦痛に顔をゆがめ、膝から下の無くなった右足を力ずくで治そうとするように、両腕で抱え込んでいたのだった。彼女の周囲にはいつの間にか、火トカゲを弾く為の白色の防護雲が出現し、その頭上からはシステムから恒常的に削除されては放り込まれるデータの滓が、まるで不揃いな雪のようにバラバラと降り掛かり続けていた。現状では高等な策が打てない事は、どうやら知られたくない様子だった。彼女なりの見栄があったのである。
「なるほど」
その発言にはキムの代わりにヒェロムが納得し、感心したように呟いた。それとは裏腹に、千切れそうな顔でクアンが叫んだ。
「デリートの拒否限界が切れる！ 早く脱出しないとウイルスと誤認されて消されるわよ！」
その最中、ウエスギはちらっと疑わしそうな顔でキムの方を見た。
「…お前の部下、態度でかいぞ」
極力表情を変えず、キムは返した。
「共同経営者なんだ。―じゃあどうします、室長」
「火事の時は水よりも消火器。火元が油なら蓋をする。婆さんにはそう教わったな」
「消火器… つまり不燃性の粉末―」
はっとし、天恵を受けたような顔でキムは立ち上がった。大モニターの濃緑色の画面の中では、蠢く火トカゲ共と虫食いのようにスキップした情報の穴（トリートニスの存在場所である。その独特のパターンはキムにしか判別できなかったが）、そして降り積もる削除データがチカチカと点滅していた。キムは一同に向かって振り向き、画面を指差しながら声を張り上げた。
「“塵”をトカゲに叩き込むんだ。元々破壊された連鎖だから延焼はしない。奴らの“炎”が収まった段階で仮の定義ファイルの蓋を被せ、同時に“ヴォルカヌス”へのルートを逆走する。トニーの後に続けば道は分かる。後の処理は冥界の連中に一任。―これでどうだ？ やってみて駄目だったらもう一時撤退するしかないぞ」
一同はしばらく、あ、という顔で口を開けてキムを眺めていたが、やがて間髪を入れずにその作業に取り掛かった。口には出さないものの、チームの全員がキムの実力と、トリートニスの存在の大きさを認識し始めている事は疑いの余地が無かった。そして当のキムは、主にトリートニスに向かってもう一度説明を繰り返していた。
「分かるなー？ そいつにゴミを叩き込んで、さっさとここから―」
「…痛」
「何だって？ お前も作業に掛かれトニー」
「しばらく足はだめ… 動作が不自由だからあたしは土中の仮リンクを伝って“ヴォルカヌス”へ抜ける。あなたたちのルートデータは送るから…」
「…トニー？」
トリートニスの声は弱っており、明らかな苦痛を伴っていた。が、高度なテクニックを持つルナの技術者にして、データ生命体に心と痛みが存在する事を、いまだにキムは今一つ把握し兼ねていた。
「土中ってシステム内部か？ それは書き換えにはならねーのか。で、火山の何処へ出るつもりだ？ ト…」
突然、滝のように流れ込んで来るルートアドレスの数値を残し、彼女との通信は再び不通になった。そして、このデバッグルームではまだ気付かれていなかったが、災いの根源である「燃える破壊者」が冥界にまで出現したという事実は―“ヘパイトス”の暴力的な支配力が、オリムポス全体に及び始めた事を意味していた。これはまだ前兆に過ぎなかった。火トカゲは、いわば溶岩の火の粉でしかなかったのだから。
テラ発、統合政府所有のチャーター機の１台が、直接交渉のため月に向けてのカウントダウンを始めたちょうどその頃、元神官の違法エンジニア、サムナディン・クシャトリアは、とあるルナシティ市民の部屋の一つにいた。彼には面倒を見続けている、数多くのモニター―つまり、違法データ生命体の試作品ユーザー―が存在した。クシャトリアが他の違法デザイナーと一線を画している所は、高額なデザイン料を分捕る代わり、全てのトラブルに無料、もしくは格安でデータ生命体のメンテナンスを継続するという点で、（親切ではなく、自分の可愛い子供たちを他人の手に預けているのが不安、というのが本音らしかったが）彼とモニターたちとの関係はメーカーとユーザーのそれより、一種の「師匠と弟子」に近かった。…ともあれ彼が、呼び出したユーザーの一人の部屋のドアを開けた時、その男はすっかり怯えきった様子で壁にへばり付き、周囲では養子に出した“妖精”達がすっかり武装を整えた姿で非情警戒態勢を取っていたのである。彼らがテロリストでも潜伏しているかのような顔で睨み付けているのは、この部屋のメイン端末とそのモニター画面だった。クシャトリアは口をあんぐりと開け、飽きれた様子で声を掛けた。
「…何をしとるか」
「し、知りません！ こんな装備はプログラムした覚えがない。第一―」
「お前に言っとるんじゃない。フェリックス。サブリナ。トゥイーティ、一体何と戦うつもりなんだ？」
メットを目深にかぶった、作戦行動中の赤毛の少女が顔を上げて答えた。
「しッ。お父様、聞こえたらどうするんです。奴らはアドレスも個体も識別するのに」
後を追うように、やはり玩具のようなマシンガンやランチャーで武装した（少女に比べると間が抜けて見えた）異形の生物たちが口々に喋った。
「まだサラマンダーをご存じないんだ」
「あたしたちの居場所を追尾して来るかも… これもご主人を守るためです、父様。見逃して。今オリムポスの中は大変な騒ぎなんだから」
頭にリボンを付けたウズラが、真剣な顔でロケットランチャーを構えモニター画面を照準している姿は、さしものクシャトリアにも何とも曰く言い難い代物ではあったが、彼らが相当切羽詰り、緊迫している事だけは彼にも伝わってきた。先程から会話に参加できず、取り残されていたこの部屋の主がおもむろに口を開いた。
「ねッ。昨日からこんな調子で言う事を聞かないんです。指令最優先モードにしても駄目で… 何か隠しプログラムでも入れてたんですか？ そうでないなら保障期間中の―」
男は気の毒にも、“妖精”の主たる権限をいつの間にか忘却されていた。クシャトリアは屈み込むと、彼の子供たちの目線で話を始めた。
「…サラマンダーだと？」
「“人形”の一種だと思うんだけど、ものすごく強くて… 気に入らない物はみんな燃しちゃうみたい。残留テンポラリの草原や森も随分焼かれたわ。オリムポスはあちこち焼け野原になって、“妖精”やシステムサポートの“精霊”たちまで隠れ場所がなくて逃げ回ってるの。ご主人のいない“妖精”たちが可哀想… 見つかればどんな目にあうか」
白いものの混じった短い顎鬚をもてあそびながら、クシャトリアはしばらく何か考えていた。ここに赴く前、自宅に本局からのフォロメールが何通か届いていたのを、彼は出支度にかまけていい加減に聞き飛ばしていたのだった。記憶しているのは送り主がフェル・マルコである事と、言葉の中に「新型の過剰デバッグ擬似生命体（“人形”の事である）」「連鎖型破壊システム」という用語があった事のみだが、彼はその随想だけで事態のあらましを理解した。ただ、一般の“人形”が特定のルートにしか出現しない前例から、事態を少し甘く見ていた事は否めなかった。“蟹虫”単体には、妖精などを完全に消し去る力はない。だから彼らは集団で襲いかかる。同一の行動を取る為にはそれに相応したシステムが存在せねばならず、必然的に使えるルーティンは限られてくる。しかし、“人形”単体がデータ生命体に致命傷を負わせるだけの力を持つとしたら―
返事してもらえない事に苛立ち、家主が再び声を上げた。
「クシャトリア！ 私はどうしたらいいんです？ 今日中にこいつらと空調システムのレポートを作らなきゃいけないってのに。オリムポスが何でトラブったか知らないけど、戦争ごっこの巻き添えはごめんです！」
「お前は一人で課題もこなせんのか？」
憤然と、長すぎる研修期間を過ごしているこの男は答えた。
「今時、気の利いたエンジニアなら大抵は“妖精”に仕事のサポートさせてますよ。市販のは記録と資料出しくらいであまり役に立たないけど、何たって人間じゃないから。時として思いも掛けないアイデアを提供してくれるしね。その点、あなたのデータ生命体は高度な学習能力に加え、オリジナルの独特なデータバンクを持っていて素晴らしい。だから高額払って使ってるのに… まあその分ワガママだけど」
クシャトリアは、改めて彼の部屋をぐるりと、ねめつけるような視線で見回した。独身男性のアパートにしては贅沢な造りで、電脳機器の設備もルナの平均的市民に比べて充実しているように見えた。彼の顧客の一人であるから、半人前エンジニアであっても当然、裕福な階層の出身なのである。―クシャトリアは決然として言い放った。
「今日からここを対“人形”対策本部にさせてもらうぞ」
「…なに本部ですって？」
「うちには色々秘匿せねばならない物があってな。いざという時足が付いては困るんじゃ。その点お前なら一般企業へのアクセス権もあるし、見た所そこそこ使える程度のバンクと容量も持っておる。大体、基地の一つも無かったら戦はできん」
間延びしたような、茫漠とした驚きの表情を浮かべた後、男は絶叫した。
「いつから戦争する事になったんです！ 私はただ、うちの“妖精”たちに大人しく仕事を―」
「向こう十年間の“妖精”無料メンテナンスと動作保証、あと新型購入の際、原価の８割での下取りも付けてやる。お前はいずれ、オリムポスを救った英雄の一人としてルナの歴史に刻まれる事だろう。それでもまだ断るかね？」
好条件に喜んだというよりはクシャトリアの勢いに恐れをなし、男は思わず首を横に振った。ごく一部の関係者の間でしか認識されていなかったオリムポスの根本的な災いが、まさに今巷間に広がろうとしているのだった。すでに部屋のシステムをいじり始めたクシャトリアに、男は小声で尋ねた。
「歴史に名前って… どういう意味です」
「偉大な仕事になるという意味だ。刻んでおいた方が良いぞ。なにせ、わしはお前の名前をよく忘れる」
トリートニスは、本来何者も入り込めない筈のシステムの土壌の中を、まるで細々とした地下水脈のように無形の、そして分岐した幾つもの流れに姿を変えて移動していた。それは暗黒の世界をまさぐって這いずる感覚に近かったが、敢えて言うならここには元々「光」に相当する定義自体がなく、膨大な二進法の集積から形成される土壌粒子以外、これといって手に触れる固形の触感もない、苦痛と言うよりは「無感覚の地獄」に近い世界だった。彼女の性質は四大元素の水に当たり、だからこそこんな芸当も可能になるのだが、本来これは特殊診断モードのサーチシステム以外行ってははならない反則行為であった。移動中のトリートニスの意識は退行し、最小限の記憶―点のように感じられる目的地のアドレス―と、「ここからここまでが私」というギリギリの自己確認作業以外は機能しておらず、残る全てのメモリは仮想空間を通じ、彼女の「本体」へと返還されていた。主神であるその「本体」は今頃、失われた右足の痛みを代わりになすられて苦悶しているに違いなかった。
〔“ミミズ”ね、これはまるで〕
ごく僅かなデータの残存が、一瞬彼女の記憶の中を走った。と同時に、それと同じくらいか細い、彼女を呼ぶサーチ電流の「声」がトリートニスの流れの一端に引っ掛かった。
〔…トニス〕
〔―え？〕
キムに何度も「トニー」と呼び付けられていた経験が、彼女にコールへの反射的な対応を促した。
〔私…トリートニス。もしくはトニー。固有アイデンティファイドデータ、カテゴリーは神格セカンダリ―〕
〔…こにる？ 存在箇所が分散してまるで解体されているようだ。無事なのか？ 貴女の力を借りたい〕
〔キム？〕
それは明らかに、キムとは別系の信号だった。もはや人の形を取っていなかった彼女に、再び明晰な意識が戻ってきた。
その頃、先に無事“ヴォルカヌス”に到着したキムたちデバッグルームの一行は、“塵捨て場”の圧縮データの淵に在中し―いわば穴から恐々外を覗くような形で―この恐るべき火山の様子を調べていた。それは削除、もしくは訂正される以前のファイルの圧縮コピーと、バグやワームなどの不正データの膨大な屑が積もり積もって形成された巨大な山脈だった。かねてからデバッグシステム“ヘパイトス”の仕事場は、必然的にこういうものが溜まる構造だったとはいえ、その肥大ぶりは常軌を逸し始めていた。“ヘパイトス”自らが始末したバグやデータ生命体の残骸のみならず、“人形”たちの獲物、傷ついたシステムから押し出されたクラスタやループの破片などが大地からの皺寄せとなって寄り集まり、地球にしか起きない筈の大陸移動に近接する動きとなっていた。そして頂上の噴火口からは溶岩と共に新たなる“ヘパイトス”の尖兵たちが恒常的に吹き上がり、オリムポス全土にばら撒かれ続けていた。―ともあれキム達が調べた範囲では、周辺に“蟹虫”や“火トカゲ”の姿は、お膝元ゆえに逆に存在しなかった。自らの動作に無害なデータファイルの偽装を被せ、キムは出口から覗いて（彼が内部の存在ならば、その様子はヘルメットを被った工事人に酷似していただろう）火山の「斜面」でそれとなくトリートニスの姿を探したが―らしい影は見当たらなかった。ウエスギが尋ねた。
「…生意気な部下は？」
「じきにアクセスがあるさ。それより、俺達はこの怪物をどうすりゃいいんだ？ まさか火山ごと削除するわけには行くまいし」
クアンが口を挟んだ。
「どれだけの時間と労力、それに電力を食うか分かったもんじゃない。構造自体一様じゃないのに。下手すれば削除だけでオリムポス全体がシステムダウンするわ」
「とりあえず“人形”の旧型と、今回出現した“火トカゲ”の発生だけでも封じられれば解決の糸口はある。神格は基本的に自立したシステムだが、“ゼウス”他の力のあるシステムを介入させる事で動作制御は可能だ。我々が扱っているのは我々の道具だ。神ではない」
スートの確信ある発言は、このチームの実質的なリーダーが誰であるかを物語っていた。しかし、キムは見えない程度に肩をすくめた。長年のマシンとの付き合い、取り分け人には解決できない原因不明の厄介なトラブルを押し付けられ、その解決に当たらされていたキムには、機械が機械でありながら「性格」を持ち、時として一種の「感情」を示す事が経験的に判っていた。それが心に類するものなのかそうでないのか判断する事を、彼はすでに放棄していた。要は「そのようである」なら「そのように対処」すれば済む事だ。だから常に一歩身を引き、機械の「愚痴」に耳を傾けながらご機嫌を取る、というのが彼の方法論であったし、それを人にも理解させようとは考えていなかった。機械の機嫌を読むのは一種の直感力である。持たない人間には求めても無駄な物だからだ。
「―噴火口に蓋でも？ でもそんな事したら…」
「本物の火山ならどうなる？」
ウエスギの質問に、クアンが答えた。
「蓋をすればマグマのエネルギーや水蒸気が火口に溜まり、いずれ致命的な大噴火が起こるでしょうね。大地を割るような」
しばし、沈黙がルームを支配した。
「本物ではないんだ。その間に火元の“ヘパイトス”を制御し、暴走を止められれば―」
「スート、ここは慎重に判断した方がいい。過剰デバッグ蔓延以来、“ヘパイトス”との直接アクセスはほとんど行われてないんだし、内部構造が変化してる可能性もある。“ゼウス”の言う事を聞くとは限らない」
珍しくウエスギが慎重論を述べたが、スートは取り合わなかった。
「敵が旧“人形”だけなら別の選択肢もあるが、“火トカゲ”を見てしまった以上放置する訳にはいかん。おそらくは進化型だ。あれ一匹すらまだ倒し方が分からんのに、それより強力な“人形”でも発生したら―ルナシティはもはや機能しなくなるぞ」
重い数秒間が過ぎ、腕組みをしたキムが口を開いた。
「俺はスートに賛成だ。どの道一回のアタックで全面解決する筈がないし、ここまで来て何もしないで帰る訳にもいかない。俺のカンだと、蓋をしたっておそらく“ヘパイトス”の方で何か策を講じて取り除くと思う。まあ時間稼ぎだ。それでも稼ぐ時間は必要だろう」
キムの意見は、ルーム全体の認識と合致したようだった。火山チームのみならず、“アレス”担当メンバー、通常業務の職員までを含めた全員に「いよいよ本格的作戦」という静かな緊張が走った。ウエスギ、クアン、そしてスートはそれぞれ火山の「噴火口」に向け、アクセス可能な地点を探し始めた。キムはそれに加え、姿を見せないトリートニスへ再度通信文を打ち始めた。―誰もが遠慮して聞かなかった質問を、ポツリとウエスギが口にした。
「…キム」
「なんだ？」
「お前の相棒、ひょっとして本当に怪我したんじゃないのか。理由は知らんが、さっきの声はどうしてもそう聞えたぞ」
キムは答えなかった。これ以上心の負担を負えるようには、彼の神経は出来ていなかった。少ない重力下で暮らすルナ市民は外傷を追う事は稀で、肉体的には脆弱に出来ており、苦痛に対する免疫力も弱かった。たとえ、彼らが地球人の何十倍もの精神力を持っていたとしても。
その頃、ルナ政庁は地球からの使者を迎えるため、にわかに動きを慌しくしていた。チャフスカヤを始めとする１０人弱の“神官”たちが、その不必要な重いローブを翻し、急ぎ足で庁舎へと吸い込まれていった。彼ら“神官”にすらいまだ事態の掴めない混み入ったトラブルを、一体あの紋切り型の連中にどうやって説明すればいいというのか？
「“アレス”に現在不審動作は出ていないそうです。ただ…」
「ただ、の付く答えは聞きたくないが、なんだ」
「領域の一角にアクセス不能なブラックボックスが出来ていると… 構造は“アフロディーテ”に似てきたようです。両者の間にリンクが出来ているというのは本当でしょう」
チャフスカヤは廊下の真ん中で突然立ち止まり、部下を振り返った。彼は危うく神官長に激突しそうになった。
「愛と美の女神に教化された軍神が、不穏な戦意を抱く筈がない。―それでは説得出来んか？」
“神官”一行に向かい、ルナシティ政府首脳たちが近付いて来るシルエットが、廊下の終点に浮かび上がった。チャフスカヤの部下は困った様子で遠慮がちに答えた。
「まあうちの首相と外相が説得できるようなら、可能性がないとは言えませんが…」
データ生命体、もしくは神格から見る“ヴォルカヌス”には、その頃奇妙な光景が展開していた。暗黒の噴煙を無視するかの如く、地球上でいう「レンズ雲」に似た傘のような物件が頂上付近に数個出現し、しかも少しずつ広がり始めていたのである。火トカゲの追跡を逃れ、岩場の影や窪地で事態を目撃していた“妖精”や“精霊”たちは、ついに主神ゼウスが怒り、ヴォルカヌスに雷の鉄槌を下すのだとヒソヒソ噂し合った。だがレンズ雲の正体は神の怒りではなく、キム達が製作中の、強制定義ファイルやデータの塵でできた“火山の蓋”であった。これが溶岩や火トカゲにどのくらいの効力を持つものか―誰にも確証はなかったが、ともあれやってみる価値は有りそうに思えた。ルームの中でキムは（いつの間にか作戦責任者にされていた）チームに指示を出し、自らも淡々と作業を進めていた。トリートニスからの返信はまだ返って来ず、キムは無ければ無いで、始めからそんなメンバーは居なかったかのように振舞える男だった。―やがて準備は完了した。
「“火山の蓋”作戦を実行します。よろしいですか？ ヒェロム」
「私は口出しするつもりはない。君を信頼しとるよ。キム・ウォジ」
キムは肩がズッシリ重くなったのを感じたが、敢えて軽い口調で尋ねた。
「先程のアドバイスには感謝してます。他にも我々の気付いてないポカがもしあったら、教えて頂けると嬉しいんですがね」
勿論半分冗談、半分お世辞で述べた言葉に過ぎなかった。が、またしてもその通り、ヒェロムから彼らの隙を突いた見解が返って来た。
「蓋には蒸気穴は開いてるのかね」
「え…」
火山チームは一瞬凍り付きそうになったが、セッティングは既にやり直しの利かない所まで来ていた。一同は気を取り直し、クアンが明るい笑顔で答えた。
「穴は必要ありません。蓋から“人形”が抜け出したら元も子もありませんし」
「それはそうだな。いや、昔近所で圧力鍋が爆発する事故があったのを思い出してね。ほんの少し蓋をずらして蒸気を逃がし、鍋の温度を上げ過ぎないのがプディングを作るコツだ、と婆さんも言ってたし」
余計なまでに鋭いヒェロムとヒェロムの祖母に心の中で呪いの言葉を投げながら（もちろん表情には完璧に出さず）、キムはついに作戦の号令を掛けた。
「開始します。―“火山の蓋”を“ヴォルカヌス”稼動部分にリンクさせる。溶岩の動きに注意して、沈静化した時を狙ってくれ。逆流でもさせたら一巻の終わりだ」
オリムポス内部で火山を見守っていたデータ生命体の群れが「ああっ」と声を上げた。噴煙を割っていたレンズ雲が一つ、また一つと降下し始め、火口の中に沈み始めたのである。―その内部では、ふつふつと煮えたぎる溶岩と今まさに溶岩の中から生まれ出ようとする“人形”の群れが、何か未知の障害物に突き当たり、戸惑ったように主“ヘパイトス”の手元へ舞い戻った。そして難を逃れた溶岩は、よじれる様な形態を取って雲の隙間へと移行し、そこから再び吹き上がりかけた。が、これもまた新たに下降する別のレンズ雲に押さえ込まれた。データの塵で守られたファイルは燃え盛る炎を「不完全なシステム」と定義し、少なくともその接触部分のみは動作不能に追い込んでいた。―作戦は成功だった。
「うまく行ってるぞ！」
「隙を作るな、完全に封鎖するんだ。残りの雲を変形させて―」
このプロジェクト開始以来の、初めての歓喜の声がルームに沸きかけたまさにその時―突如、轟音と共にレンズ雲の一つが粉々に砕け、溶岩もろとも火口から噴き上がった。
「…何」
青ざめて立ち尽くしたスートの横手で、クアンがヒステリックな叫び声を上げた。
「―ヘパイトスの“槌”！ 槌が動作してる… システム神格に気付かれたんだわ。あ、あたしたちの存在もサーチされる。はやくここから撤退―」
「逆行したら再び“タルタロス”の穴の中だ！ 俺たちの構造は知られてる。もうデリート拒否は利かん！」
ウエスギまでが呆然としていた。
「やり方が… 間違っていたのか？」
「こんな仕事に間違うも正解もあるか！ 雲の階層が薄過ぎただけだ。今度は二つ三つ重ねて―」
ただ一人敗北を認めず作業を続けるキムの目の前のモニターに、どこかで見たような虫食いパターンが現れた。はっとしてすっかり忘れていたパーソナルメールを覗いて見ると、そこにはいつの間にか消えた仲間からの返信が届いていた。
“真打参上”
その時トリートニスは、片手を上げ巨大な岩のように見える物体を頭上に浮かべながら、電脳空間の火山上の空間に仁王立ちしていた。
→８に続く