トリートニス・パラダイム 月は無慈悲な夜のＫＯ ６
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…そして、怒れる火山の灰は街を埋め尽くした。
埋められた人々は、数千年後にその姿をさらけ出した。
人生の何が怒りに触れたのかを神に問うために。
―とある歴史家
６
“溶岩”はオリムポスの台地を浸食し始めていた。システムルーティンの管理とデータの保管―圧縮と解凍、コピーのメンテナンス等―、つまり、日常「大地」の役割を果たしているのは十二神の一人で、“ヘラ”に次ぐ強権の持ち主、“デーメーテール”であった。彼女はかつて神話通り、その娘“ペルセフォネ”を死の神“ハデス”にさらわれて以来、頑固で気難しい女になっていた。娘は普段、黄泉の国“タルタロス”で地獄を彷徨うロストデータの管理を行っている。電脳世界の全てのデータは、事実上「削除」され抹消されていても、浮かばれぬ魂がそうであるようにこの世から完全に消え去る事はなく、大いに形を変えて“タルタロス”の中で眠っているのである。死者となったデータの分類整理は“ペルセフォネ”の仕事で、彼女にしかこなせなかった。―要するに変質したデータを読み取ったり、万が一「蘇生」させる場合は“ペルセフォネ”システムが必要なのである。（夫の“ハデス”は削除のみが主な業務で、彼女に関してはその仕事を記録し、許可を与えるだけである。しかし、この夫婦は円満だった）凍りついた冬―凍結ファイル―の大地に解凍の春を呼び、花を咲かせ実りをもたらすには、“ペルセフォネ”システムの一部を使わねばならない。しかし、夫はこの有能な妻をなかなか手放そうとせず、結果娘は母“デーメーテール”の元へ頻繁に使いを寄こさねばならなかった。オリムポス全土には、こうした有形無形の「神々の使者」が飛び回っており、それを総括しているのは（人間の交通の管理のみならず）交通神“ヘルメス”であった。―“ヘルメス”はまた「泥棒の神」でもあった。緊急を要する通信には表通りだけでなく、神々の裏街道への精通が肝要だという事である。
〔古い凍結データが、こんなに溶かされて削れている！ 一体“溶岩”にやられたデータはどうやって修復するの？ それとも不要な物しか消えていないのかしら？ ―ああ、冥界からの使者が来ない！ ペルセフォネ！ どうしているのかお母さんに連絡をよこして！〕
娘を案ずる―というか、頼りにしている―“デーメーテール”の嘆きと、少しでも“溶岩”を防ごうとする一念は、ついにオリムポスを周辺からじわじわと凍らせ始めた。耕された農土、つまりすぐに解凍できる書庫ファイルはさらに縮まり、別システムが無ければ開かない第二段階の圧縮ファイルへと変化し始めたのである。“溶岩”は、その場では大地を浸食できなくなった。しかし「使えない」という点では問題は更に大きくなっていた。
デバッグルームでは、ついに「決死隊」の人選が決定した。
「キム― こちらは３級のスティーロと、チームを組んでいるクアン。スート、こいつが地球帰りのキムでな。二人ともここに来て数週間… 新米同士だから気を使う事はない。まあ火山の取っ掛かりから探してみよう」
ウエスギに紹介された男は、小振りな体躯に不似合いな鋭い目線でキムを眺め、握手の手を出した。
「よろしく、キム。ところで“オリムポス”はどの辺まで御存知ですか？」
男の後ろに控えているのは、どれ程謙虚にしても隠しようのない、骨太で立派な体格を持つ利口そうな女だった。おそらくキム同様、成績と業務時間で給料を査定されるフリーランスのアウトサイダーに違いなかった。“オリムポス”のメインデバッグは、４級の人間にとっては数少ない「中央への道」であり、あえてフリーランスに甘んじているエンジニアが昇りたがる、貴重なはしごでもあった。彼らもまた何度も火山に登り、遭難したり滑落したりしたのである。ここでキムに株を奪われる訳にはいかない、という対抗心がその目にはありありと現れていた。
キムは（滅多にやらないのだが）笑顔を作って「スート」に握手を返した。
「降りる前は、主に交通と通信の方にいました。山登りまでは経験が無くてね。よろしく先輩」
女が口を挟んだ。
「“十二神殿”の神々の相互リンクは複雑よ？ 迷わなきゃよろしいけど」
少し不安そうにキムを顧みたウエスギの後ろで、まるでピクニックの朝のような口調でキムは答えた。
「いやあ、“ヘルメス”に関わってると、“オリムポス”の大抵の場所に関わるハメになるもんでね。あの神様の人間関係はとんでもない。一時はティターンズエリアに自分のデータキャンプも張ってました。まートラブル以降消されましたけど」
ぐっと口ごもった様子で、クアンはスートの方を見た。４級が“十二神”の下部、“巨人族”領域を行き交うには、かなりの数の認定と許可を必要とする筈である。キムがこれまでに膨大なトラブルを処理してきた事だけは証明された。だが、こういう傭兵エンジニアに慣れているスートは動じなかった。
「それより― トニー嬢はどちらに？ チームに加わって頂くのは大歓迎だが、出来ればここに出勤してもらいたいものですね」
キムの心臓に、金属でスッと撫でられたような冷たさが走った。ここは正念場である。この先、トリートニスの正体を隠したまま仕事の手伝いを続けさせるには― とにかく― トニー本人が出たがりで、野次馬的性格の持ち主である事は既にキムにも分かっていた。彼の頭脳は、職務用の冷静な部分とは別の方向に忙しく回転した。
「…可哀想な奴でね。家族が地球に行かせる事を強く希望し、いまだにエンジニアランクを取得させてもらえないんです。バレれば何をされるか… ここは一つ彼女の才能と名誉のために」
オリムポス周囲を取り巻く、人気のない（神気がない、と呼ぶべきか）荒れ野の空を、天使の姿をした子供が飛翔していた。少しでも“溶岩”から遠い場所を探してきたのだが、荒れる“ヘパイトス”に追われ、“溶岩”に付け狙われて、彼の安心して飛べる場所が無くなるのは時間の問題だった。なぜなら通常、彼は公の神々の大地の上を飛ぶ事を許されていないからである。彼の地位はギリシア神話内では明確でなく、“アフロディーテ”の息子とも、そのお付きの精霊ともされた。別の創造神話では、宇宙そのものを産み出した主神という説まであった。しかし、神の座の中での地位など彼とその役割にとってはあまり意味がなかった。彼の名は“エロス”。―正規のシステムマニュアルにその名は記載されていない。誰がオリムポスに組み込んだのかは今となっては不明だが、彼はいわゆる「非合法領域」を管理する存在だった。
何かを警戒するように、周囲を見回しながら飛ぶ「天使の少年」に、突然数匹の“人形”が食らい付いてきた。
〔わあ！〕
“エロス”が慌てて払いのけた時は、既に“人形”たちは幾分彼の体内に食い込んでしまっていた。少年は怒ったような表情を見せると空中で体を縮めた。光の粉のようなプラズマが彼を取り巻いた。
〔いい加減にしろ！ 神格だって言ってるのに！〕
少年に食い込んだ蟹虫どもは砕け散って消滅した。息を荒げ、まだ怒りの収まらない様子の“エロス”の元に更に上空からの声が響いた。
〔「合法的動作」とやらに適合してないと苦労が多いな！ 実は俺も数回やられたんだ〕
羽の生えた靴を履き、空中を飛翔していたのは“ヘルメス”であった。先程までは姿を隠して行動していたらしかった。磊落に何処からでも声を掛ける“ヘルメス”とは違い、“エロス”は神経質に辺りを見回すと、上昇して接近してから彼に言葉を返した。
〔お前は母様の仕事に荷担したのか？“ヘルメス”〕
〔“妖精”たちの延命処理を手伝っただけだ。ネタは何でもいい。ともあれ奴らには常に新しいデータを与え、学習機能をフル回転させてシステム体系を更新させておかないと反応が鈍り、ひいては死に至る。データ生命体の弱点だ。俺たちのようにメモリバンクを好きに使える訳じゃないからな〕
“エロス”は疑わしそうな目を向けた。
〔交通神のお前が“妖精”に物を教えるって？ 何を？〕
〔そうさな… 主にメガリフトやサブウェイの時刻表、定期アクセスのスケジュール、地下ファームの搬出時刻…〕
〔何の脈絡もない数字の羅列じゃないか！〕
オリムポスの危機的状況を意に介さないように、“ヘルメス”は悠然と下降し、どっかりと大地に腰を降ろした。仕方なく、“エロス”は彼に続いた。
〔そうだ、無意味な情報だよ。「役に立つ知識」なんてものには体系がある。あいつらの容量では喰いきれない。まあそういった知識の細切れが“妖精”の飯代わりだってわけだ〕
〔まるで吸塵機だ〕
“エロス”はその身長を“ヘルメス”に合わせる為か、それとも警戒してか大地には足を付けず、不安定に空中に浮かびながら大地の端を指差した。森や草原が立ち枯れ、彼方から白い氷結土が浸食しているのが見えた。
〔周辺の氷が分かるだろう。“ヘルメス”、地母神はついにノイローゼだ。“溶岩”で地獄“タルタロス”への道が塞がれて、ロストデータの行方が確認できなくなったからな。僕が母様の使いを止めればいいんだろうが… いかんせん“妖精”の一部は、既に“アレス”の庇護下に入っている。この状態が続けば武装したエルフやウンディーネが人間の町へ暴れ出し、占拠を始めてもおかしくない。それにそもそも僕は“アフロディーテ”の下位システムだ。逆らう力は持たされていない〕
〔そういうのに似た女神は一人知ってるな。鎧兜を付けた“アテナ”〕
姿は２〜３才の幼児に見える“エロス”は、まるで不釣り合いな老成した苦渋の表情を浮かべていた。“ヘルメス”は尋ねた。
〔そんなにお熱くなってるのか？ 美の女神さまは〕
〔美術データシステムなんて、元々ロジカルな物じゃない。強硬なルーティンを持つシステムには影響されやすいんだ。今じゃすっかり頼り切ってるよ。だから浮気性が治らないんだけど〕
ふと、“ヘルメス”が立ち上がった。誰かの呼ぶ声にでも反応したように、彼は遠方を見つめていた。
〔人間が“ヴォルカヌス”に向かっている―〕
〔またデバッガーだ。成功した事も無い癖に〕
“ヘルメス”は再び空へ舞い上がった。
〔神格が加わっている〕
〔なんだって！〕
〔おそらくあいつだ。これ以上ルーティンを乱したら本当に噴火しかねないってのに！ 早く身を隠せ、“エロス”。この分じゃじき、主神の非常召集が掛かるぞ〕
ルームのサブモニターには、キム、ウエスギ、スティーロ、クアンの４人が張り付いていた。「火山退治」のメンバーは全部で５人である。―電脳空間では、最後の一人が身支度を整え、（だらだらと長いローブをベルトでまとめただけなのだが）戦いに赴こうとしていた。彼女のオペレーションは、電脳空間での実際の「行為」である。それが暴露しないように― どう指示を出せば良いのか？ 自分の相方が音声通信マイクの前で頭を抱えているとも知らず、トリートニスは伸び上がって遙かな“ヴォルカヌス”の山稜を眺めた。彼女の最終目標―“人形”の発生と、“ヘパイトスの槌”の封印―のチャンスが、こんなに早く巡って来るとは思っていなかったのである。
「トニー！ 聞こえてるか」
キムの声が空間の目に見えない通信網を伝い、トリートニスの頭の中に響いた。
「聞こえてるってばキム。視界は良好よ？ あたしはこのままヴォルカヌスまで飛んでっていいんでしょ？」
え、というような顔と視線の矢をピリピリと身に感じつつも、キムは努めて冷静に（実はじっとりと冷や汗をかきながら）彼女に答えた。
「とんでどーする。仕事中はちゃんとデスクの前に座ってろ。指示はここから出す。勝手な操作は慎んでくれ」
「デスクって…」
キムの目が座った。
「ですくと言ったらデスクだ。今お前がいる端末の。あるだろ、目の前に」
「目の前は山…」
「あるよな？」
キムの鬼気迫る声色で、トリートニスはやっと現在の自分の立場を思い出した。―程なく、キムの個人用ディスプレイにのみ文字通信が入った。
“オペレーターのふりをします。でも自信はないわよ。私的に言いたい事があったら、文字で私の仮アドレスに通信して”
その文章の下に、アドレスらしき文字列が並んでいた。火山退治より厄介な部下を抱えてしまった事に、キムはようやく気付き始めた。
「どこから手を付けます？ 特待生。この階層の先は“人形”の渦よ。下手に開けたらこちらに入って来るから注意してね」
やや皮肉っぽく、クアンがキムに問いかけた。キムはもう一度姿勢を直してトリートニスに尋ねた。
「トニー、裏道があるって言ってたよな」
「あるわ。まず“ハデス”を自己検査モードにし、屋敷の後ろ―でなくて、メモリ領域から“タルタロス”の穴に一旦飛び込むの。中層で“ペルセフォネ”が庇って… いやその、いったん確認してくれるから、丁重にデリートを拒否してそこから一気に火山の中腹へ。“人形”が破壊した不正データの塵捨て場に出るのよ。あんまり使いたい道じゃないけど」
ほお、と感心したような声が一同から漏れた。
「なるほど。盲点だったな」
「“ペルセフォネ”は確か、１分以内にデリート拒否をしないと、ロストと見なして一度データを“タルタロス”へ取り込んでしまうわ。そうなると簡単には回復できない… 途中で“人形”にでもたかられたら、データが壊れて不正と見なされ、個人情報が破壊される恐れもありね。大丈夫なのキム？」
「…と、クアンというお姉さんが言ってる。大丈夫なのかトニー」
少し肩をすくめ、トリートニスは答えた。
「さあ？ 処理スピード如何よ。ともかくやってみれば？ “デュオニソス”側を使う手もあるけど、こっちはお薦めしないわ。うっかり見付か―テンポを残したら、ハッカーとして追跡されるかも」
もう一つの通信がキムのディスプレイに現れた。
“一番危険なのはあたしなのよ！ 分かってる？”
片手でさっさと返信を打ちながら、キムは一同に言い渡した。
「トニーは“人形”退治が特技でね。挑戦してみましょう」
一方電脳空間では、トリートニスの目の前に、文字の書かれたぞんざいな紙切れが一枚舞い降りてきた。彼女が手に取った紙片にはこう記されていた。
“女神なら死なない。筈だ。なんとか踏ん張ってくれ”
オリムポスのコンピュータエンジニアは５つに分けられる。最高位は“神官”で、このクラスはあまり実務には携わらず、ルナシティの全エンジニア達を取りまとめ、職務を総括し、ルナシティ政府との連携を取るのが主な役割である。いわゆる「現場に立たない管理職」であり、ルナ開発当初からの名門の出か、さもなくば２級“予言者”から抜擢で昇進するケースがほとんどである。だが実際にシステムに関わる回数が格段に減るため、職人タイプの“予言者”には忌避される場合も多い。人間は普段付き合う人種に似てくるものであり、“神官”はまさにエンジニア達にとって第二の（もしくは本当の）政府であった。これに比べ“予言者”は現場の最高責任者として、広範なシステムへの知識と実際のオペレーティング能力が必要とされ、仕事にはルナシティ各地への出向も含まれていた。これを喜々としてこなすか嫌がるかで、彼の未来の地位はある程度確定する。“予言者”の下には、同格２級の“祭司”という役職があり、いざとなれば面倒な仕事は任せてしまえるので、何でも祭司頼みになる“予言者”なら、まず政治的家的資質充分であると見て良かった。ウエスギやスート、もしくはデバッグルーム室長のヒェロムなどは皆、３級“託宣”に属し、彼らが最も酷使される一般管理職階級である。同じ３級でも、現場での地位は大きく異なる。一般に言う「エンジニアランク」とは職務の差以前の所属であり、むしろ文化圏の差であると言っても良かった。キムやクアンは４級“巫（かんなぎ）”、基本的に自由雇用のフリーランスで、現場での能力は最も高いとされた。（実力がなければ雇われないのだから）―その下には「ただオペレートが出来る」というだけの雇用者、大勢の５級“宮司”がおり、これがルナのシステム関係者の大半を占めていた。ともあれ、“宮司”や“巫”には神官クラスは雲の上の存在で、彼らが何を考え、地球との折衝にいかに苦悩しているかなどキム達には想像もつかなかったし、また普段「想像しろ」と命令される事もなかったのである。
「…“アレス”の不審動作ですって？」
テラの統一政府評議会から唐突にメッセージを受けた“神官”議長のチャフスカヤは、文字通り「毒気を抜かれた」ような顔で通信者のフォロフェイスを見つめていた。（地球との通信にはタイムラグが生じ、動くとかえって混乱するので止め絵になっていた）―彼がつい先程まで頭を悩ませていたのは“予言者”フェル・マルコからの進言で、それは「“アフロディーテ”メモリ内部へのアクセス不能」であり、「“十二神領域”の凍結、孤立化現象」であり、そしてトラブルの根源、“妖精”を総括すると言われる「“トリートニス”の正体への新しい提言」であった。彼は悠然とした無表情で（これはマルコの相当の自信の現れである）―言ったものだ。『もう一度神話原典のデータを発掘し、整理して体系化する必要があります。オリムポスを扱いながらこんな事も知らなかった… 私は恥じ入っていますよ』
―それはともかく、地球人が考えているのは全く別の事らしかった。口パクだけのフォロフェイスは述べた。
「そちら―ルナシティの挙動は、一通りこちら側に解放されているとはいえ、“アポロン”に選択され、封印されて不明な部分も多い。もちろんプライバシーや内部データ、不要な情報まで受けてはこちらもパンクしてしまいますがね。以前から申し上げているように、こと“アレス”に関しては未公開部分を作らないで頂きたい。テラにサンプルのない、未知の暗号通信で動作しているという噂があるのですが」
チャフスカヤは、はっと我に返ったようにその線的で神経質そうな顔を上げ、緊迫した面持ちになった。
「何を言われているのか把握しかねます。新たな暗号化の予定など聞いていません」
「では、あなたが御存知ないんでしょう。暗号はランダムで断片的、時としてデータ生命体のような自立動作をしています。こちらでは解析不能でした。ルナとテラの長年の信頼を守るためにも、我々は一時的な“アレス”の全面開放を希望します。ハッカーの仕業なら、地球側のオペレーターにも手伝える事があるのでは？」
全面開放― それは動作権の譲渡に等しかった。ミサイルの、そしてごくまれに接近する大型の隕石を破壊する為、ルナがやむなく手にした核弾頭の動作権。さしもの長年の信頼も、暗黒の核の壁の前では立ち止まらざるを得なかった。
火山“ヴォルカヌス”近辺の空は異様な黒煙に包まれ、時々地鳴りのような振動が大地を揺るがした。このような事態でなければ、先にしろ後にしろ、全ての操作は一度“ヘパイトス”の領土を通過し、不備の有無を確認されてから、それぞれのテンポラリに収納される筈であった。それが叶わない現在、オリムポスの大半の動作とアクセスは「デバッグ拒否」の最速モードで神々の元へ送られていた。無視されている事にようやく気付き始めたか、もしくはファイルサイズと使用メモリ容量がまるで噛み合わない謎の存在“トリートニス”が勘に障ったのか、“ヘパイトス”はつとめて過敏になり、先程キム達が干渉した大地へ大量の“人形”を振らせた。―その中には、いつもの「蟹虫」だけではなく、小さな火トカゲの姿も混じっていた。仮初めの存在とはいえ、“人形”共も進化し始めていたのである。火トカゲ共はべたりと大地に着地すると、二股の舌をチロチロと覗かせながら周囲を睥睨した。速度は蟹虫に劣るが、彼らは不正データを燃焼させ、（つまり連鎖的に破壊しながら）内部へ食い込むしつこくて厄介な存在だった。―しかし、幸いにもその頃、キム達のパーティ（そう呼んでいいなら）は火山近辺を撤退し、“ハデス”の神殿へ向かっている最中だった。
“ハデス”の神殿―削除、フォーマットシステム領域は、真昼の大地にぽっかりと浮かんだ暗黒の空間だった。ここは無くす訳にはいかないが、一度誤動作があると大事故にも繋がりかねない危険区域で、中央直結の機関とオペレーター以外アクセスできない聖域である。通常の削除作業は各地の「塵捨て場」で処理され、一定期間の後“タルタロス”へ送られる。“ヴォルカヌス”のその穴が“タルタロス”へ直結したというのは、あまりにも膨大な残骸で穴がもたなくなり、地獄へと崩落したという事であった。宙を舞い、このオリムポス最大の難所へと向かいながら、トリートニスはキムに向かって叫んだ。
「神殿は検査モードで塞いでくれた？ もうすぐ到着するわ」
ルームの火山チームは全員、“ハデス”からの様々な要求（オペレーターの身元調査や機動条件）に答えながら忙しく作業している最中だった。大モニターにも個別ディスプレイにも、特に問題や警告は見出せなかった。―キムが答えた。
「じきに終わる。お前から“ハデス”に頼めば早かったんじゃないの」
「冗談！ 一応あたし、主神たちの下って事になってるのよ。ハデスとはいまいち仲良くないし… 出来ない仕事だってあるわ」
キムとトリートニスの会話を聞くともなく傍聴していたウエスギは、どこか疲れた表情で呟いた。
「他とは仲いいのかよ。何やってきたんだこの女。“予言者”か何かの都落ちか？」
こういう状況にすでに適応したらしいスートが代わりに答えた。
「プライベートな関係特有の符丁ってヤツだ。いちいちこだわってたら先へ進まんぞ。ウエスギ」
「同感ね」
クアンにまで受け流され、仕方なくウエスギは踏ん切ってキムに指示した。
「同時刻に“タルタロス”へのアクセスを開始する。キム、トニーにも通達してくれ」
「了解― タイム10.03.52にメモリ領域から“タルタロス”を開く。あまり使わないルートだからどうなるかこっちには分からん。その辺うまくやってくれよ」
トリートニスの目前に、闇の中にぽっかりと神殿の偉容が浮かび上がった。もう一度ローブを結んだベルトを締め直し、彼女は返事を返した。
「“ペルセフォネ”は親切よ。割とね。旦那やお母さんに比べればだけど」
「“アフロディーテ”に“人形”が食い込んでるだと！」
この世界で最も権威の高い執務室、中央本部のオペレートルームに、上着を半分引っかけ損ね、慌てた様子のフェル・マルコが飛び込んできた。
「主神は“ヘパイトス”の直通リンクか、ライセンスデバッガーの介入しか受け付けない筈だ。何故内部へ侵攻できる？」
「今度の“人形”はちょっとタチが違います」
マルコのオペレートアシスタントの一人が、画面上に赤文字で現れたデータ生命体のファイルを指差した。
「見て下さい。格段に動作が遅く… 我々も油断していた。“人形”の不良品くらいに考えていたんですが、これは別物です。体内に連鎖システムを持っていて、喰ったデータを一部書き替えて周囲に流す。飛び火したようにそれが広がり… “アフロディーテ”は元々データ生命体を吸収して補正や再起動をうながす機能を持っています。書き換えで防壁が弱り、なおかつ対象が“妖精”に似ていれば間違えて取り込んでしまう」
「これはサラマンダーだ… 四大元素の火の精霊」
しばらく、マルコは身じろぎもせずにモニターを見つめていた。恐れ多そうに、アシスタントの一人が聞いた。
「…どう対処します。フェル・マルコ」
「崩れた防壁を凍結領域に繋げ。浸食を防ぐにはそれしかない。時間を稼いでる暇に、何とかサラマンダーを一匹捕まえて解体方法を探すんだ。それと― サーチして“トリートニス”の居場所を探して欲しい」
「トリートニス？」
マルコの目からいつもの微笑が消え、真剣に見据えるような表情になった。
「“トリートニス”は河の女神だ。今までごく限られたエンジニアの元へ突然立ち現れ、いくつかのメッセージを残している。神格の容量を持つデータ生命体がなぜ存在できるのか、なぜあらゆる領域にアクセス可能なのか、やっと分析が終了した。彼女は痕跡も残さず、自在に仮想ルーティン―河―をメモリ領域に造り出して活動する。オリムポス全土に“河”を流し、時に連携させ、“人形”を押し流しせるのは彼女だけだ。その河の水を流し込めば、あるいは火山は静まる。凍結したシステムの大地も溶けるだろう」
「そんな― 重要な存在なら、なぜ一部にしか知られてなかったんです！」
マルコの発言は、その命令に素直に従えない程の驚愕をアシスタント達にもたらしたようだった。静寂と、問い詰めるような視線が執務室を支配した。―マルコは彼らに答えた。
「影だからだ。彼女にもしもの事があれば、主神の一人に災いが及ぶ」
「“タルタロス”へ飛ぶぞ！」
“ハデス”の神殿の中では、人間界からの唐突な要請に戸惑いながらも、死の神が部下たちに仕事の再検証を命じている真っ最中だった。その空中回廊の柱の向こう側の闇に、死に神には気付かれないまま、見事なスピードで通過するトリートニスの姿がよぎった。彼女の後からは人間のオペレーター達が放つごく僅かなアクセスのプラズマが４本閃き、共にその先の更なる深淵へ向けて進軍していった。
「入り口が開いた」
「“ペルセフォネ”が出て来るわ。周辺の状況は？ スート」
「今の所何も― 待て― データ生命体らしい動きが」
キムはこっそりトリートニスに文字通信を送った。
“姿を隠せ。お前が狙われる”
トリートニスは、ぽっかり空いた巨大な暗黒の空洞の中へ降下しながら、空中に指で何かヒラヒラと文字を書いた。―キムの元に返信が届いた。
“あたしはサーチできない筈よ。こっちへ来てからずっと周辺とのリンクは断ってる”
「―え」
キムは再び自分のディスプレイと、大モニターの複雑なシステム構造図を見比べた。彼の分担の視野の中ではなく、大モニターを埋める文字列の隙間に幾つかの「数列のうねり」が現れていた。そのうちの数個は速さと大きさから言って見慣れた“人形”のものに間違いなかったが、残る５〜６個はやや大きく、動きも鈍重だった。このサイズの違う“人形”が移動する周囲では文字が点滅し、ファイルが不安定になっているのが分かった。キムに不吉な予感がよぎった。
「あの遅いやつのファイルを特定してくれ。どうも様子が変だ」
「何？」
「早いのが“人形”だろう。こっちの処理が先じゃないか。数は大した事ない」
「蟹虫」の位置とファイル名を特定し始めたウエスギにキムは怒鳴りつけた。
「そっちはほっとけウエスギ！ トニーがなんとかする。スートとクアンも協力してくれ。この“人形”は普通じゃない」
その頃電脳空間の暗黒の中、トリートニスは降下する穴の奥から“ペルセフォネ”の呼ぶ声を聞いていた。
〔トリートニス！ “ヘパイトス”にでもここへ放り込まれたの？ あなたは来てはいけない。仕事があるのだから。デリート拒否のコードを送って下さい。でないと私には止められなくなる〕
〔ご心配なく！ ちやんと帰りますペルセフォネさま。それよりこの後来る―〕
トリートニスの言葉はそこで止まった。彼女の目の前に数匹の蟹虫が現れたのである。眉を逆立てると、トリートニスは腕を振り上げて“人形”たちに波動を叩き付けた。
〔こんなとこまで！ しつこいったらないわね！〕
彼女の送る微弱電流は“蟹虫”の中の破壊指令を逆流させ、彼らは自らを粉々に打ち砕いて散った。しかし蟹虫に気を取られている隙に、トリートニスの足元に一匹の火トカゲが張り付いた事には、気付くのが少々遅れた。
〔これは―〕
そしてデバッグルームの４人は、特定しようとした火トカゲの逆襲を受けていた。削除出来ず、開かず、なおかつそれは送られた彼らの操作を片っ端から壊し、火の粉のように周囲へと振り撒いた。“タルタロス”周辺の崖の壁にそれはぶつかり、壊し、もしくはねっとりとしたデータの残骸の「灰」となって貼り付いた。燃え上がった―つまり変質した―オペレーターのパーソナルコードは彼らの軌道に送り返され、ルームではアクセス警告の信号音が鳴り始めた。のみならず、火トカゲの数匹は操作情報を読み取り、彼らの元へデータ破壊コードを送り始めた。
「うわ！ なんだこいつら！」
スートが悲鳴を上げた。―別のディスプレイ前では、火山部隊の様子をそれとなく眺めていた他のオペレーター達が顔を上げ、心配そうに成りゆきを見守った。それまで“アレス”を調べていたヒェロムが立ち上がり、火山部隊へと駆け寄った。
「どうした」
「これは… まるで別物の“人形”です！ なんとか防がないと、ここが―」
クアンが初めて動揺した表情を見せた。ウエスギは凄まじいスピードでキーボードを打ち、火トカゲと戦っていた。操作情報が燃やされる前に大量に削除指令を叩き込むつもりであった。しかし、彼の操作は炎のスピードに追い付かなかった。
「だめか―」
「攻撃するなウエスギ！ 破壊データが散って被害が酷くなる。移動防壁を張れ。指令優先度を上げ、操作情報を封鎖し―」
指示を出し始めたスートをキムが一喝した。
「んな事は始めから限界までやってるでしょお！ やってなかったの？ こいつは連鎖反応だ。防いでる間に“遅い奴”本体は逃げる。アクセスポイントをあちこち変えて避けるんだ。先に“ペルセフォネ”にデリート拒否を送らないと時間切れになるぞ！」
言いながら、キムは自ら既にその作戦を実行していた。火トカゲの目をくらませる為、次々とアクセスするアドレスを変え、分割ドライブを移動し、ひいては近場の“ハデスの神殿”や休眠データ保存領域にまで飛びながらキムは火トカゲの隙を探していた。トリートニスからの通信はさっきから途切れたままだった。この状態を、「現実の出来事」として体感する彼女の身に何が起きているかは、彼の想像を超えていた。別に心配じゃないが―と自分の感情に言い訳しながら、キムは一本だけトリートニスに文字通信を打った。
“返事しろ、トニー。生きてるのか？”
→７に続く