トリートニス・パラダイム 月は無慈悲な夜のＫＯ ４
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夢は見ておくものです。いい夢なら救われるし、
悪夢ならそれがただの夢であるという点で救われる。
―とある地球心理学者
４
キムがトリートニスと同居し始めた件については、ウエスギには伏せておくしかなかった。キムはこの事態を説明できなかったし、当のトリートニス本人も詳しい事は何も教えないので、「まあそういう事」で許される筈はないからである。無論、このオリムポスの非常事態に“女神トリートニス”が深く関わっている事など、まだキムは教えられていなかった。彼の当面の仕事は、ルナシティで最も活躍している神、“アルテミス”と“アポロン”のデバッグ、そして“ヘパイトス”周辺に生じた火山“ヴォルカヌス”の解除（可能なら）だった。せっかくシステムアップした新居を離れ、キムは「上」（月面ドーム内）へ一週間ほど出張する事が決まった。ヴォルカヌスと“ヘパイトス”本体を合わせると莫大な容量になるので、自宅からのアクセスだけでは全体を把握しきれないからである。置き去りにするトニー―トリートニスの心配は無用だった。ペットと違い彼女は食事も取らないし、それ以前に再び自宅のデスクトップを通り、いつでもネットの中へ帰る事が可能なのだ。それをせず部屋に居続けたのは彼女の怠慢である。キムのセットアップしたシステムは防壁の質が良く、安全で、どうやら彼女には居心地が良かったらしい。（それでも、トリートニス本人の出現は防げないのだが）
キムは自宅で、「一応真面目そうに見える」、彼にとっては最大級の正装を着込んでいた。トリートニスは彼の後ろで、（今度は遠慮もなくサイドテーブルに座って）彼の旅支度を眺めていた。
「…どうして仮装してるの？ キム」
「（むか）正装だろ。上はお偉方が多いんでね。万が一にも不審尋問されないためだ」
「本部のワイドデスクを使っても、“ヘパイトス”内部へのアクセスは無理だってば。まだ“溶岩”の流れて来ない裏ルートには“デュオニソス”がいるしね。対ハッカー…外部侵入者用に作られた破壊神よ。ルナシティ初期には大活躍したみたい」
飄然とした顔で、キムはトリートニスを振り返った。
「じゃあ“人形”とやらはどこから湧いて来るんだ？」
「いわゆる横道。頻繁に使われる回線を借用したり、メモリ内部に割って入ったり… “十二神直結”の判別子―免罪符があると思って好き勝手してるわ。表から調べる方法はないわよ？ どうしても案内人だけは必要だと思うけど」
無言で、しばしトリートニスとキムは見つめ合った。やがてキムの顔色が青ざめた。
「…付いて来る気じゃないだろうな」
「あたしは親切で言ってるだけ」
トリートニスは、ニッコリと微笑んだ。キムはきびすを返し、乱暴に荷物を引っつかむと、やけっぱちのような足取りで玄関に向かった。
「だーッ駄目だ駄目！ 妖精退治の不定期雇用者が、妖精連れて出勤してどーする！ 大人しくシステムのゴミ掃除でもしててくれ！」
「あたしは妖精じゃないったら！」
クルッとキムは振り返った。「じゃー何なんだ！」
「裏女神さま」
キムはそのままの姿勢で固まった。―が、無視する事に決めたらしく、無言のままドアスイッチを押した。電動ドアが音もなく開いた。―が、出ようとしたキムの鼻先でドアは突然閉まった。アゴに手をついて事態を眺めるトリートニスの前でキムはひっくり返った。。
「部屋の家電製品くらいなら、いつでも思い通りにできるんだけど？」
「いいから開けろトニー！」
根負けしたトリートニスがキムを解放し、ウエスギとの待ち合わせ場所に彼が到着したのは約束の２０分後だった。時間にうるさいウエスギのお目玉は、容赦なくキムに降り掛かった。
地上居住区には地球と月を結ぶ定期便の発着所、いわゆる「宙港」が各所に存在する。開発当初は、当然の事だがそこに降り立つ宇宙船の大半が貨物を積んでおり、人員の出入りも激しかった為、宙港はそのシップエリアもロビーも、現在では不必要な程だだっ広く、かつ簡略的に作られていた。ルナシティが成立し、社会が安定してからは、定期便の客の８割が地球観光、（逆に、地球から月に観光に来る客は少ないのだが）もしくはコズミックスポーツの常連客で占められ、ビジネスの大半はルナ―テラ間ネットの情報交換のみで賄われていた。よって宙港には「土地の無駄遣いだ」という声が上がっていなくも無いのだが―ほぼ全面計画開発の上、潤沢な未開発地を持つルナには「地価」という概念がほとんど存在せず、土地の無駄遣いは特に悪徳とは見なされなかった。問題は、その「宙港」の４割近くの地下に、地球との緊張状態が続いていた時代の残存物、「軍事施設」がいまだ眠っている事にあった。確かに、決して多くはないとはいえ、現在でも「海賊」の部類の星間略奪者は存在するし、それよりも深刻な事態―そしてこちらは頻繁に起こる―小惑星や隕石の月面への衝突、を防ぐために、迎撃用ミサイルの類を完全に撤廃する事は事実上不可能であった。小惑星用でも、海賊用でも、また対地球用でも、ミサイルの射程距離と爆薬の量以外、兵器の規格に差がある訳ではなく、その事実がルナとテラの関係をいまだ「完全に平和的で親密」にする事を妨げていた。
ピンク色の髪を固く結い上げた女が、中部第３宙港のロビーからスタッフルームを抜け、地下への昇降機に乗った。
宙港職員の制服を着てはいるが、このラインは通常、その職の人間が使用するものではなかった。彼女の顔には、その丸みを帯びた愛嬌のある造作には似つかわしくない、緊張と警戒心が浮かんでいた。―ふと気付いたように、彼女は衿の職員バッヂを外すと、ポケットからもう一つのバッヂを取り出して同じ位置に付け替えた。ルナ防衛機構―軍隊の階級証だった。
「不正アクセスってどれのこと？」
「ロイ准将―」
地下、軍事基地のホールはさして広くなかった。非常時に備え、狭い面積に最小必要限のレーダーモニターや監視装置、そしてドームで封印されたミサイル発射時の指令デスクなどがぎちぎちに詰め込まれただけの、およそ居住性を考えない空間で、非常コールを受けて参上したポーリン・ロイは身をねじり、機器類の間をすり抜けて監視員の元へ赴かねばならなかった。普段一人詰めていればいい方のメインデスクの前には、５〜６人もの監視員と下部士官が集まっていた。
「外部からではありません。しかし、当面機動の予定のない“アレス”第２階層にまでデータが流れ込んでいるんです。ただの不正アクセスなら反応する筈がないんですが―」
監視員の指差す大型のモニターディスプレイには、いつもの宙港風景や立体マップではなく、「アレス」の文字を頂いた動作履歴の文字列が大量に浮かび上がっていた。
「…受け答えしている？」
「そう、受け止めるしかないでしょう。アクセス内容は暗号化されていて、こちらのエンコードは受け付けません。“十二神”の内部通信ではないかと」
ふくよかな唇に指を押し当て、ポーリンはしばらく考えた。
「今、“十二神”内部は円滑にいってない。ただの自動動作チェックかも知れないわ。ただし、“アレス”は数回事故を起こしてる。利用したい人間もいるし、普段封印されているだけに、いざという時動作が周辺と噛み合わない… 警戒するに越した事はないでしょう」
「もう少し演習回数を増やしてくれれば」
下士官の嘆きは、ポーリンの頭痛の種でもあった。しかし、それを正面から弁護してやれる権限は、彼女にはなかった。モニターから顔を背け全員を振り返ると、ポーリンは通告するように言った。
「我々の動きはシティ政府のみならず、地球側にも全て解放されています。お分かりね？ 平和協定を揺るがせない為には、極力“アレス”本体を動かさずに事態を収集せねばなりません。我々の第一の任務は安全管理です。嘱託デバッガー達にアクセス許可を― 掃除の人を呼ばないとね」
月面ドーム内の風景は、空に地球が掛かる事と、電線の代わりにフォロ投影機用の網目状の配線がある事、市内に土と緑がなく、フォロ・プラントで装飾されている事、そして建築物が主に金属とセラミックで出来ている事を除けば、地球・先進国の夜景と大差なかった。それは始めに月に移住した人々が、アースシック（地球回帰願望）に掛からぬよう精神的安定を図って企画したデザインであり、時代が下った現在でも踏襲され続けていた。しかし月には建築に向く石は産出せず、またコンクリートの類は低重力下では安定しないので、いきおい金属を多用する結果となり、地球のそれに比べると硬質で、非人間的な印象与えた。滅多に通る事のないこの高級街のメインストリートを、キムはウエスギに伴われ、物珍しげに眺めながら歩いていた。Ｅボックスの交通は少なく、地下通路に比べると通行人は多い。時折ガイドするように、もしくは遊び仲間のように薄いブルーやピンクの“妖精”達が、人々に付き従って通るのが見えた。ここが歩くに値する道である事を、人々は誇示し、喜んで享受しているように見えた。
「お前はこの辺に住んでんの？ ウエスギ」
「馬鹿言うな。“予言者”より上だ。家賃の桁が違う。俺みたいな“託宣”は下と上の使いっぱだ。道に詳しい、って点じゃ“神官”以上だがな」
キムは装飾の多い、大手マーケットらしき建物のショウウィンドウの前で案内をしたり、商品説明をしたりしている“妖精”たちに目を留めた。下にいるそれはコミック風のものが多いが、ここでは“妖精”もランクが違うらしく、それらは本物の神話や伝説に登場する精霊のデザインを模したものが大半だった。
「ああいうのがトニーのお仲間か」
「なんだって？」
「いや… 大体なんで、妖精なんかフォロキャラに使うのかなと」
ウエスギは思い出すように、時折虹色に光を反射するドームの天井を眺めた。
「２年前… といえば、本格的なデータ生命体の出始めだ。初期は面白がって、ロボット風やアクの強いキャラを作る奴が多かったがな。町中に置いて、もしくは年中側にいて不快でない、ストレスを感じない、それでいて人間とはすぐに区別できる… という観点から、デザインも絞られていったという訳だ。あまりリアルな物は法に触れる。だが、時々その手のも出現する。公的でなく、趣味でフォロキャラを組んでる奴なんて山のようにいるからな。事実上規制は不可能に近い。違法はシステムから防ぐしかない。厄介な話だ」
「尻拭いでもカネになるなら拒まないがね」
受け答えながら、キムは「どう見ても人間」でしかないトリートニスを思い返した。彼女が誰かの作であれば、れっきとした違法行為に当たる訳である。強いて言えば、月人にしてはプロポーションが良すぎ、地球人にしては洗練され過ぎていて、街中に置けば確かに目立つから、誤魔化しようがない―という点だけが合法的だった。
ウエスギの足取りは、目前のオリムポス本部ではなく、その近辺の幹部用詰め所への道で折れ曲がった。
「先にフェル・マルコに挨拶していくぞ」
「誰だって？」
「俺たちの最高位の上司だ。会議室より研究室にいる方が好きな人でな。個人的に尋ねたい事もある。お前も面通ししておけ」
ウエスギは真面目な表情になっていた。キムは肩をそびやかした。
「あまりやんごとない方は苦手なんだがね」
飛翔する一体のシルフ（風の精）が、何かに追われるように切迫した表情で、キムとウエスギの間を通り過ぎた。
「ごめんなさい！」
「はい？」
映像を避ける必要はないのだが、キムは本能的に身体を曲げ、彼女を通した。ふと顔を上げると、彼らの前面にいたノーム、プシケ、その他何ともつかないファンタジックな生物たちが、まるで地震を予知した鼠のように慌て、前方の建物からこちらに向かって走って来るのが見えた。次の瞬間―
「無音」の爆音が響き渡った。
そうとしか表現のしようのない光景が展開した。通行人や建物には何の衝撃もなく、通りの様子はは平穏なままなのに、ただ“妖精”と街路樹や花などのフォロアイテムのみに激震が走り、画像のフォーカスは狂って形が滲んだ。木々は色分解がずれて何重にも重なり、飛ぶ“妖精”の何体かは薬を掛けられた蠅のように（月にはいないのだが）ボタボタと地に落ちた。地震が起きたのはシステムの内部である。それは疑いの余地がなかった。キムは頭を掻いた。
「…なんだかな」
「連中も楽はしてないらしいな」
“ヘパイトス”の怒りは頂点に近付いていた。
硬質の―あまつさえ、機器の精度を保つため冷却さえされている筈の、オリムポス地下の広大な電脳空間の中に、確かに灼熱の“溶岩”が流れ出し、大地を掻き削って溶かしながら、ふつふつと流れていた。それは現実の「高熱」ではなかったが、システムの一部を溶解させ、ドライブ状態とメモリ配分を変型させながら移動する―まさしく“溶岩”としか形容できない大神の勅令だった。そして遂にはメインドライブ、「十二神領域」をぐるりと取り囲もうとしていた。神々は自らの仕事の傍ら何度も“ヘパイトス”に諌言するため使いを出していたのだが、彼らは全てマグマの熱に煽られ―つまりは自らの変型と溶解、そして抹消の危機にさらされて―撤退せざるを得なかったのだ。事態は十二神を越える巨人族（ティターン）の地母神“レア”さえ顔をしかめる所となっていた。“巨人族”と呼ばれる基礎システムはルナシティ初期、まだ一般端末とのリンクがない頃に成立したオリムポスのベースシステムで、ここでの操作はルナシティの全システムに影響し、時としては取り返しが効かないため、２級“予言者”クラス以上の技術者しか扱う事を許されていない。怒れる大神を諫める権限は主神“ゼウス”にはなく、いざとなれば巨人族の手を借りるしかないのである。だが、困惑する“十二神”のみならず、人間の「オリムポス管理部」も出来れば危険な手段は取りたくなかった。―“ヘパイトス”は、菌糸のように微細で、かつ断続的に頭上を流れる不快な信号の閃きを感じ続けながら、彼のしもべを製作するための“槌”を振り上げた。振り下ろす“槌”の下で、不安定で不明なデータファイル―主にデータ生命体―を食い尽くす為だけの存在、“人形”が無数に生まれ、風に蜘蛛の子が散るように何処ともなく舞い上がり闇に消えていった。のみならず、打ち損なった“槌”の響きは大地を揺るがせ、「その瞬間に」所属証明の出来なかった周辺のデータを全て吹き飛ばし、もしくは破壊した。怒りのあまり、彼はわざと何度も打ち損なっているように見えた。
〔あの女が誰に助けを求めたかは判っている―〕
再び、“槌”が大地を直撃した。無数の見えない悲鳴がシステム内を駆け抜けたが、もはや彼の耳には聞こえなかった。
〔私の仕事を汚し―不正なるものを“貝”に封じ―あまつさえ会ってはならぬ者と密会を重ねている。そして不必要な妖精共の全てをあの女が庇っている。…オリムポスに審判はいない。全てを裁く権限を持つ、清浄なる神は誰も存在しない。宇宙の根源、ウラノスとガイアにすら不正がある。裁ける者は―もはや私しかいない―〕
“ゼウス”は他の神々に相談を持ちかけていた。主神のシステム作成能力、その妻“ヘラ”の強制変更権、そして知恵の女神“アテナ”の自在なシステム制限、もしくは再リンクの能力を合わせ、“ヘパイトス”を封印できないものかと。最悪の場合、死の神“ハデス”を呼び出して彼の一部をフォーマットしてしまえば事態は収束する。しかし“十二神”の大半は首を縦に振らなかった。膨大な容量のオリムポスの全システムに、一度にスキャンを掛ける道具は“ヘパイトスの槌”以外有り得ないからである。知恵の女神、そして“ゼウス”の一番のお気に入りの娘である“アテナ”は、不安に駆られる他の神々を励ますように言った。
〔人間の技術者も、そう見くびったものではありませんよ！ 彼らのやり方をもう少し見てみましょう〕
オリムポス幹部詰め所には、「ペリオン」という名が付けられていた。ギリシア神話に登場する、知恵に長けたケンタウルス「ケイロン」が、医療の神アスクレビオスを育てたという山の名前から取ったものである。その名に準じてか、ここは幹部の仮宿泊の施設であると同時に、資料室、研究室の趣を帯びていた。現在、人類史上重要な文字データは大半ここのメモリに収められているが、古代の「本」の実物もまた、物的資料として幾ばくか安置されていた。月は乾燥しており、虫や黴などの微生物もいないから、あとは凶暴な太陽光と酸素さえ防げば保管環境としては完璧に近かった。これで「本」を手にして脂を付ける不逞の輩さえいなければ―
キムとウエスギがペリオンのロビーに立った時、フェル・マルコは「本」を手にして現れた。
「やあ！ はじめまして。キム・ウォジ？ 私は２級のフェルナンデス・マルコシアス。さっき地震があったのを知ってますか？」
キムの目はでんぐりと開き、穏やかな笑顔で近付いて来るマルコではなく、彼の手に大事そうに握られている物件を眺めていた。キムは小声でウエスギに訊いた。
「…何持ってるの。あの人」
「本だよ」
「本！ こりゃまた奇矯な男だ。博物館員か？ 握りつぶして粉にしたらどーするつもりなんだ」
ウエスギは、マルコに見えない角度でキムのみぞおちに一撃食らわしてから、似合わない笑顔を浮かべ、マルコに握手の手を出した。
「お久し振りです。フェル。街道で目撃しました。あれもヘパイトスの暴走ですか？ 速やかに仕事に入りたいと―」
「すまないね。私が原因なんだ」
マルコ以外の二人の顔は引きつった。一人、ニコニコと笑顔を浮かべ続けながらマルコは言った。
「“ゼウス”を通じて大地神“レア”にアクセスしてみた。ドライブ判定では安全度が４２％にまで落ちてる… “彼女”も機嫌を悪くしてるよ。“槌”のクリーンアップがブロックされず、ダイレクトに外部にまで漏れてしまった」
どうしていいか分からず、固まっているウエスギの後ろからキムが尋ねた。
「なんで本なんか抱えてるんです？ 先生。ここの図書データには手落ちでも…」
「キム！」
遠慮という物を知らないキムの態度に、ウエスギは過敏になっていたが、ため口をきかれた当のマルコは嬉しそうに本を開き、中身を見せびらかすようにして言った。
「書き込みだよ！ いつの時代、誰の物かは不明だけど。古い本にはたまに思わぬ予備情報がついて来る。こういう不正データを、管理部はコピーしてくれないんでね」
その頃、ウエスギたちの到着を待ちわびていた本部デバッグルームのメインデスクでは、ちょっとした騒ぎが持ち上がっていた。ルナの機器管理を一手に引き受け、地球圏データ担当“アポロン”との最優先リンクを持つ“アルテミス”が不調に陥ったのである。どうやらルナ情報の地球との定時交換の際、別システムのどこからか横槍が入ったらしい。“アルテミス”はルナの全電脳機器データの状態を各所から吸い上げ、時刻を刻んでグラフ化し、基準値と比較して報告、トラブルがあれば修正、もしくはチェックする―という作業を瞬時にしてこなす、ルナシティの要といっていい存在だった。しかし、彼女は今「サーチ不能」の文字列を画面に大量に吐き出し、処理１・最近時データの送信で処理、と投げたように表示した後、第一段階のビープ音と共に「この処理の５０回後には処理２に入ります」と通告した。処理２とは、一部機器類の停止である。そしてデータの未処理回数が増えるにつれ、順次ルナシティの機器類はハーフモードに入り、半休眠状態に落ちていく。事態は深刻だった。メイン端末に取り付いていたデバッガーの一人が悲鳴を上げた。
「こっちを攻撃して来るんです！ 最近の過剰デバッグで拒否反応が出てる」
「アレルギーかな」
ルーム室長、ヒェロム・リガは深刻そうな風でもなく、（そう見えるだけなのだが）手元すら見ずにキーボードで“アルテミス”に診断モードの質問を繰り返していた。―アクセスは拒否され、ついでシステム不安定の警告文が流れた。強行すれば落ちる可能性がある。しかし、５０回目の機器類停止までは楽観しても十数分の余裕しかなかった。
「“アルテミス”は外からの介入をあまり好まない。自分の都合ばかり一方的に並べ立てる。処女神だそうでな。娘は総じてそんなもんだろう」
「茶化さないで下さい室長！」
「地球帰りのデバッガーはいつ来るんです？ 昇った翌日にどっかのセンターで一仕事したって聞いてますよ」
ヒェロムの指は忙しく動き、無数にあるルナシティの電脳機器のうち、主要な物を検索すると直接“アルテミス”にリンクさせた。―特に状況は変わらなかった。「サーチ不能」の文字列が一行消えた以外は。
「まさかアナログで…」
「対処療法だ。取りあえず繋げるだけ繋いで機嫌を取ってくれ。私はウエスギに連絡を取る」
しかし、当のウエスギはシステムノートをサイレントにし、キムと共にマルコの自室でお茶を振る舞われている最中だった。マルコは本のように二つ折りになっている、見慣れない変則的なディスプレイで資料文書を開くだけでは飽きたらず、実物の資料本を片手に部屋を歩き回りながら、二人に神話の講義を開始していた。キムの目は泳ぎ、彼の書斎であるこぢんまりとしたワンルームの天井や壁を眺めた。観葉植物や古代美術的な装飾時計―そこには“動き回る”フォロキャラクターは一つも存在しなかった。ルナ市民が謙虚にこれだけで済ませていれば、“ヘパイトス”がストレスを溜める事もなかったろうに…とキムは考えていた。
「神話のヘパイトスは、策略を持って美の女神アフロディーテを手に入れた。ゼウスの直系の息子ではあるが、一説によると不仲の末、ゼウスの妻ヘラが一人で産んだともいう。彼は家族愛には恵まれていない。これはルナの“ヘパイトス”が他の全システムの下位に立たず、孤立した完結性を持つ事実と呼応する。主神“ゼウス”にすらメンテナンスを掛ける優先性は、そうしなければ成立しなかった。不思議な符合だとは思わないか？」
ウエスギは、ルナ・プラントファーム産の紅茶をすすりながら、対処に困るような表情で返した。
「いくらオリムポスシステムの原典でも… ギリシア神話は異聞が多すぎて苦手なんです。後のローマ神話ともごっちゃになってるし」
「あの劇場のミニチュアみたいな時計は何が言いたいのかな？」
全く無関係な話をするキムに気を悪くする事もなく、マルコは続けた。
「時間が来ると人形が出るんだ。古代人は面白い事を考えるだろう。―ローマ神話はギリシアの踏襲に過ぎない。そしてギリシア神話に一貫した論理性がないのは、それが古代、地中海沿岸に林立した小国家群をまとめるために、各地の神々を無理矢理結びつけた―いわば寄り合い所帯の世界観だからだ。根源を辿れば、ギリシアの神々は全て赤の他人、各地ではそれぞれいっぱしの絶対神であったものが、政治的な協定と力関係から結びついているだけのものだった。だからこそ一遍の神に片寄らず、多用な側面をフォローする宇宙観が生まれ、ひいてはこの時代にまで応用される事になった訳だがね。システム同士のトラブルが多いのもある程度は忍ばねばならない。民主主義とはそういうものだから」
細かい部分まで聞いてはいなかったが、絶対神と民主主義を平然と並べるマルコの奇妙な感性に、キムは少々興味を示した様子だった。
「で… “ヘパイトス”のおっさんがキレてる理由は？」
「…現在、“妖精”を含むルナの全映像データは“アフロディーテ”が管轄している。“ヘパイトス”の妻、神話では美と愛の女神だ。画像には公的機関の買い取り物以外、すべてパーソナル記号の判別子と著作権がついてくるんだ。企業製品のみならず、趣味のグラフィッカーの分まで含めた膨大な“妖精”のデータ。その煩雑な安全性のチェックは“ヘパイトス”一人では賄いきれない。大半は“アフロディーテ”内部の特殊な隠しファイル、通称“貝”の中で女神一人の手で行われている… 神話のアフロディーテには、数多い愛人がいた事を知ってるかね？」
なんとなく読めてきた気がして、キムは思わず相づちを打ったが、ウエスギのそういう直観は発達していないらしかった。
「は… あ」
「だから私が伺いたいのはそこです。フェル。先に“アフロディーテ”の内部調査さえさせてもらえれば、あるいは強力な暴走デバッガー“ヘパイトス”を介さずに―」
「亭主介さないで女房に会ったら、もっとキレるのが分からないかウエスギ？ おまえ彼女いないだろ」
「ぬぁんだと！」
ウエスギは無視したまま、キムは笑顔のまま固まってしまったマルコに調査するような目つきで再び尋ねた。
「ファイル属性をいじれば、彼女が好きな相手と『内通』する事も可能だって話ですよね？ 神話のアフロディーテの愛人って一体誰なんです」
「それだよ。私が異聞を探してる訳は… 有名な所では小人“ピュグマリオ”、花の名の語源ともなった美少年“アドニス”、後に子孫がトロイアの王となる“アイネイアス”、そして―」
しかし、マルコはそれ以上の解説を続ける事が出来なかった。実は先程から鳴り続けていたウエスギのケース内のシステムノートの電話が、緊急モードでサイレントを突き破って鳴り出し、ガタガタと振動音を立て始めたからである。ウエスギはあわててケースの置かれたサイドチェアへと走り―ようやく、デバッグルームの災難を知った。何を思ったか、彼の最初に発した「はい」以外の台詞はこうだった。
「だからヤなんだよ女ってのは！」
デバッグルームでは、すでに４８回目の再サーチが掛けられ始めていた。スタッフの懸命の努力でどうにか停止処理は引き延ばしているものの、そろそろ限界だった。ヒェロムも別に、ウエスギとキムを探すだけで時間を費やしていた訳ではなかった。重要機器には中央リンクを外して単体動作を指示し、“アルテミス”には双子の兄弟“アポロン”を通じて説得を続けていた。ともあれ構造はよく似ているから、事態は安全であるというデータを流して収めようとしたのである。―彼女は納得しなかった。この状況以前に、極めて危険度の高い不正アクセスが存在した事実を、それは物語っていた。しかし、相変わらずサンルームでの昼寝前のような表情で（あくまでそう見えるだけなのだが）、彼は呟いた。
「処置なしだ。ウエスギたちの到着には最低でも１０分以上はかかる」
「それで事態が解決するとは限らないでしょう！」
苛立ったように、デバッガーの一人が怒鳴った。彼もまた、かつてマルコやヒェロムが指名し、チームに加わった一人だった。もちろん通常の“不法妖精”単体の処分はお手の物だったが、“ヴォルカヌス”に立ち向かい、彼は一度自分のパーソナルデータを全抹消されかけた。“人形”はコードから逆算して、彼のプライバシーまでも侵したのである。ただの道具かと思いきや、“ヘパイトス”直結だけあって、“人形”は結構利口だった。これで危険人物のデータとでも入れ替えられていたら、警備トラップに引っ掛かり倒されていたかも知れない。現実、過去にそういう事件があったらしいという噂もあった。もちろんヒェロムは口を閉ざしているのだが。
突然、乱れた画像と雑音を伴い、ルナシティ防衛軍からの通信が入った。
「私です… ポーリン・ロイ。そちらとの回線を開いた時に“アレス”が何かしませんでしたか？ 不安定になっています。履歴を追ったんですけど何分間かの動作分が欠けてるんです。あるいはそちらの方に―」
「“アレス”ですって？」
驚いたヒェロムがモニターに近付いた時―突然、ポーリンでも、スタッフの誰かのものでもない女の声が通信に割って入った。
「何やってるのよあんたら！ 月神さまがヒステリー起こして、矢を撃ちまくって暴れてるじゃない！ それでもデバッガー？ 新入りのキム・ウォジを呼んで！ 彼なら何とかできる。繋いでくれたらあたしが指示するから」
「お前は誰だ！ 今回女性スタッフは取ってないぞ！」
ヒェロムが叫んだ時、スタッフ一同は初めて彼の「大きく見開いた目」を目撃した。―それはともかく、闖入者は画像すら現さず、それでいてどこか人を威圧する確信のある声でこう言った。
「あたしはトリ― トニーよ。今度入ったキム・ウォジのアシスタント」
→５に続く