トリートニス・パラダイム 月は無慈悲な夜のＫＯ ３
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愛などに意味はない、と言っている男の面倒を見るのは、
そりゃあ骨が折れるのよ！
まさしく「愛」がなければできない行為ね。
―とある星間ネット女優
３
大通りにも匹敵する、広大な回廊の入口で数分間も躊躇した後、フェル・マルコは勇気を出し、地下居住区へ続くほの暗く長い廊下を歩き始めた。
「結局我々は何も知らない… 自分達の王国の子細な構造も、その影の部分も。どんな上級技術者に尋ねても分からなかった事が」
誰一人聞いていない呟きが、回廊の入り組んだパネルで複雑に反響し、マルコの身に外套のように絡みついた。それに頓着する様子もなく、彼は独り言の試行錯誤に没頭しながら、人気のない大通りの下り道を無心に歩き続けた。屋内に直通リフトやシューターが増えてから、このような古い通りはさびれ、かつての地球の、流行らなくなった飲屋街のような物悲しい風景へと転じていた。それでも通りにはそちこちに家屋があり、人が暮らしていた。恐らくは人気がない事を必要とする人種が。
「…こんな、顧みられない場末に転がっているとしたら―」
突然、凄まじい反響と共に道端の缶の山が崩れ、そこから一匹の野良ペットロボットが風のように走り出してきた。マルコは驚き、ちょっと身を防ぐように上げた腕の後ろから音源を確認した。１０年前ほどに流行した、４つ足のタイプである。フォロキャラ全盛時代を迎えて以来、かつては「第２の市民」にまで昇格しかけたロボットやアンドロイド達は急速にすたれ、解体の面倒なペットロボの類は、そのまま捨てられ、このように「野良」と化すケースも少なくなかった。自分で公共充電器を見つけて生き延びるものもいるが、大半は哀れに思った市民の誰かが充電の「餌」をやっているのである。（野良電脳動物にエサをやらないで下さい！ そんな張り紙があちこちにあるにも関わらず―）
「しっしッ！ ったく、しょうがないな犬型は！ 知恵だけは有りよって。これだからマテリアル（実体のある物）は嫌いなんじゃ、なんでここにバッテリーがある事まで―」
ぶつぶつと文句を言いながら、ひっくり返った缶を片付けに出て来た、胡麻塩髭を無精そうに伸ばした初老の男が、ふとマルコに目をやり― やがてニタリと笑った。
「おや。“予言者”の先生。すぐにここが分かったかね？」
細い目を更に細くし、やや怯えたような表情で、まだ差し上げていた腕の隙間から男を覗き見て、マルコは答えた。
「…先生は止めて下さい。クシャトリア… 元“神官”に呼ばれてはむしろ屈辱です」
気付くと、いつの間にか初老の男の側には、決して労働力としては役に立たない“妖精”の家族達が張り付き、警戒するようにマルコを睨んでいた。
どう使えばそうなるのか理解できない―というくらい散らかり、汚れたクシャトリアの自宅の居間で、マルコは正体不明のお茶を勧められていた。そこはログハウスの一室で、（当然、丸太風の壁は合成樹脂である）窓の外には風にざわめく広大な草原が広がり、（無論フォログラフである）暖炉では消えそうに僅かな焚き火が燃えている。（この炎はなかなか良く出来ていた）―そして、まるで大家族の農夫の主のようなクシャトリアの周囲には、どう見ても彼のオリジナルらしい５〜６人の“妖精”たちが控えていた。地球の西部開拓時代の妻、といったデザインの者もいれば、触覚や羽根を体から突き出した、奇態な幻想の産物のようなキャラクターもおり、その主の趣味はようとして窺い知れなかった。マグカップの湯気を吹きながら、不安そうにちらちらと妖精たちを見るマルコに、クシャトリアが言葉を掛けた。
「通報は控えてくれんかね？ こいらは全部違法デザインだが、家の近辺からは出られんように設定してある。“妖精”ではなく、わしの家族だよ」
「…本物のご家族は？」
ニタッと笑い、クシャトリアは答えた。
「本物でさえあれば、それが本物であるという定義は成立しない。当初の『本物』の基準が曖昧であればそういう事だ。わしの本物はこいつらだし、それはわしを追放した“神官”職が、本物の神の使いでない事と同義じゃないのかね」
「…禅問答は好きじゃありません。こちらから質問に伺ったのに、オリムポスに通告するほど非礼でもないつもりです。私がお訪ねしたいのは、女神“トリートニス”の制作者は誰なのかという事です」
ざわめいていた“妖精”たちが突然硬直し、静まり返った。クシャトリアは彼らに手を振った。
「お前たちは奥へ行ってなさい。お父さんはちょっと難しい話をせにゃならん」
奥へ…歩いて去るのかと思いきや、彼らはそのままスッと消滅した。システムの奥へと帰ったらしい。クシャトリアは指を組みながら、本腰を入れて再びマルコに向かった。
「あいつらでさえ知っている。ルナシステム内で、トリートニスを知らんデータ生命体はおらんだろう。―だからと言って、トリートニスに制作者がいるという根拠にはならん。お前は“ゼウス”の制作者を知っておるか？」
「…名前は知りません。月開発当初の、情報総合管理プロジェクトの一環だった筈です。しかし、システムとデータ生命体では―」
「たとえば、“アレス”の制作者は名前が知れている。オネスト・Ｋ。かつて“アレス”が誤作動し、小惑星破壊用ミサイルの矛先が地球へ向けられた時、責任者を非難するためにマスコミが持ち出したのだ。つまりそういう事だ。根源が掘り返され、個人名が出されるのは責任が問われる時だけだ。そして、トリートニスには長い間それが無かった。オリムポス内を奔放に駆け回り、これ程の影響力を持っていたとしてもな。暗黙の内に了承されてきた存在だということだ」
煙に巻くようなクシャトリアの話しぶりに、マルコは少々辟易した面持ちで目をそらせた。窓の外には、地球の５月くらいの眩しい陽射しが溢れ、本当に地球のそのような地域にいるかどうかはともかく―鹿が走っていた。これが全て幻想であったとしても、月人には不平を述べる道すらもなかった。その重力の少なさ故に、月面が大気と自然、風や青空に覆われる時代は永久に訪れないのだ。ここにはなにもない。データ以外の何も―
「…自然発生？」
巧妙に、窓から風が吹き込むようにセットされた空気循環装置が、ぼんやりし始めたマルコのカールした銀髪を揺らした。
「それはない。そこまで電脳は進化していない。フェル・マルコ。わしの推測では複数人の共同製作か― あるいは、“神”自身の防御作用の一種だろう。もし後者ならトリートニスは、“神”自身を破壊しない限り消し去る事はできない」
「アフロディーテですか？」
「…ベースは不明だ。なぜ？」
「夫婦のくせに、“アフロディーテ”と“ヘパイトス”の間のリンクは、現在大半が稼動していません。直通の内部デバッグは不可能だという事です。そして立ち向かったエンジニアは全て、火の山“ヴォルカヌス”と呼ばれる不可触領域―“人形”の駐屯地、で叩き潰されている。その外部で明確に意思を表明し、“妖精”の動きの根本になっている領域はトリートニスしかない。いわは取っ掛かりは彼女だけだというのに」
「味方に付けようとは思わないのかね？」
いつの間にか立ち上がったマルコを、うっすらとした影のまま覗いていた“妖精”たちが不遜に囁き始めた。
〔お父様が守ってくれますよ！〕
〔でも、トリートニス様がやられたら、あたしたち誰も“貝”の中に帰れないわ〕
〔ここで消しちゃおうか？〕
〔あとで叱られるよ〕
〔放電で馬鹿くらいにはさせられる。それとも記憶を書き替えちゃう？〕
〔ちょっと可哀想… 悪人じゃないかも〕
〔あんな奴が！〕
少し気弱な笑みを浮かべ、マルコは振り返った。
「女性が苦手なもので。私に説得する自信はありません」
ウエスギはキムを伴い、「オリムポスエンジニアサービスセンター」で手続きを取っていた。ランクは基本的に抹消はされないとはいえ、更新した公認証とパス、そして各部門の深部へアクセスするためのコードチップだけはどうしても必要だから、無ければ仕事にならない。こういった重要な物件は安全を期すため、この時代でも本人への手渡しが続いていた。幾つもの不定形の柱だけで区切られた、素人は確実に迷子になる広大なオフィスの一角で、ウエスギはカウンタに肘を突き、不遜な態度でオペレーターに詰め寄っていた。
「降りないってどういう事です？ “予言者”人事部の直接依託の筈ですよ？ 第５階層まで行けなきゃ自由に作業できないでしょう！」
無論、彼はキムのための苦情を言っているのである。が、当のキムはと言うと、寝不足のようでぼんやりした目をあさっての方向へ向け、生あくびを噛み殺していた。オペレーターは困ったような、半ば面白がっているような微笑を浮かべて答えた。
「４級“巫（かんなぎ）”の方が自由動作権を持つには、１年以上の無事故職歴と登録更新が必要ですから… キムさんの履歴は去年フリーズされてしまいまして」
やや息を付いて、ウエスギはキムを見た。
「だとよ。どうする？ お前召還の時に何か指示されてないか」
「…ふあ？」
「ふあ、じゃねーだろう。人が苦労してやってんのに。夜中まで変なトコで遊んでたんじゃないだろうな」
要するに―キムは昨夜、正体不明のデータ生命体“トリートニス”が転がり込んで来た騒ぎで寝ていないのだが、“妖精”嫌いのウエスギには説明できる訳もなかった。“妖精”のように自立思考する物件ではないにしろ、昔からキムにとって、「仮想人格」のプログラムはお手の物、得意分野の部類だったのだ。しかし―あの女は。
〔…つまり。お前が… 妖精連中の親玉―〕
〔親玉ってなによ。あたしになついてない妖精の責任まで取れるワケないでしょ？〕
〔何者なんだ、あんたは！〕
〔ルナシティそれ自体の危機が迫ってるのに、細かい事言わない。…あー、ごめん。シャワー使わせてくれる？ バトルしたら汚れちゃって―だからデフラグの事！ フォログラフに水掛けてどーすんのよ！〕
キムの目の下には青黒い隈ができていた。コンピュータの「思考」は本来、あくまで人の与えた情報と目的、その目的に対する反応の積み重ねで形成する。生存や生活の必要のないデータ生命体には、システム防衛―自己保存―と仕事以外の「目的」が生じる事はない。…筈である。つまり「ワガママ」を言う仮想人格は、無作為には存在しない。あるとすればそれは、制作者が故意に「ワガママ」を創作して加味した場合のみだ。それにしても―あの女は。
「誰がキャラ組んだんだか」
「なんだって？」
「一種のマゾだな。あーゆー女が好きなのは」
「何やってたんだ昨夜！ まだ復職も終わってないのに、違法サイトにでもシケ込んでたのか貴様！」
「あー… なんでもないってば。独り言」
目をそらせて、キムはふと天井に目をやった。そこではルナシティの大半の建造物に据え付けられている、お馴染みの物件―フォログラフ投影機が、微妙に角度を変えながら、忙しく仕事をしていた。それらは案内情報や公認のフォロキャラクター、つまり問題化している“妖精”ではなく、正規の「案内嬢」の姿をフロアのあちこちに映し出していた。彼女たちは通常、デフォルメされた、明確に人類とは違う姿を与えられており、常に笑顔を浮かべ、可愛らしく従順で―そして、自分の所属とノルマをよく自覚していた。そうでなければ困る。そうでなくなったから―“妖精”は追われ始めたのだ。機械が人の要求を無視し始めた時、人類の歴史は必ず不幸に見舞われる。かつての地球上の軍事力肥大による、明日の見えない戦乱。そして宇宙進出の際の、システムの不備による数限りない事故― そんな闇の歴史に、人類は二度と立ち返りたくなかったのではないのか。
「…れ？」
寝ぼけてはいても、キムの目は機械の動きには敏感だった。投影機の一部が突然、周囲と無関係な方向へ動き始めた。
「どうした？」
「きゃあ！」
フロアの約半分の照明が突如として落ち、キムたちから５〜６ｍ離れたカウンタの上に、規格にない筈の緑色のゴブリンの姿が浮かび上がった。慌てたようにオペレーターが立ち上がり、ゴブリンを追い払おうと宅の上のカードディシュを取り上げ、振り回した。―が、その腕はバシッという放電音と共に跳ね返され、皿は手を放れて飛び去った。オペレーターは痛そうに腕を押さえている。もう一人が急いで駆け寄った。
「大丈夫！」
「…スタンガンだ。電流まとってる。こんな悪質なのは初めてだ」
明らかに敵意を持った“妖精”だった。彼の同類、案内嬢の“妖精”たちは味方をする訳でもなく、他の人間たちと同じように怯えて身を寄せ合った。やはり手続きに来ていた他のエンジニア達は、関わりを避けようとするように身をよじり、もしくは慌ててフロアを脱出した。ゴブリンの姿を消してしまおうと、何人かのオペレーターはそれぞれの端末に向かい、フォロ投影機をチェックし始めた。ゴブリンはカウンタの上を歩き、大胆にデスクトップの一つをまたぐと、大声で怒鳴った。
「画像だけ消しても無駄だぞ！ 俺と俺の仲間は今、このセンター周辺のシステムを取り巻いてる。この間繋いだ“ヘパイトス”直通チェックラインを外してもらおう。仲間たちが道を通れなくて困ってるんだ」
この非常事態、もしくは椿事に、ウエスギは思わず身構え、アクション映画で見た事のあるポーズを取っていた。何に似ているって、前時代ムービーに頻繁に登場する銀行強盗ほど、この事態に酷似しているものはなかった。
「さっそくお出ましか。どうするキム？ 観察して帰るか。それとも逃亡？」
「あーちょっと。ごめん」
キムはウエスギを物のように退けると、先程彼の要求を跳ね付けたオペレーターに向かって身を乗り出した。
「第３階層まででいーからさ。今ここで交付してよ。何とか出来るかも知んない」
「そっ… 今、フロアの責任者がまいります！ 第一部外者にここの端末は」
キムは、あざとく目配せをし、彼女に接近した。
「そこはそれ、あんたの認証チップ貸しといて。責任は後で取るから。ね。スタンガンで痺れるの嫌でしょ？ 君ならきっと分かってくれる。エリーたん」
オペレーターは怒ったように、自分のネームプレートを指した。
「クラウディア・ボードマンです！ エリーって一体誰なの！」
「オレの初恋の人」
呆れ果て、茫然とキムを眺めるウエスギには頓着せず、キムはそのままカウンターを飛び越え、クラウディアの代わりに席に着いた。気が付くと彼は新たなコードチップを手にし、キーボードに指を走らせ始めていた。新たな椿事に、職員たちは何事かとそちらへ目をやり、「ここのシステム管理者を呼べ！」と叫んでいたゴブリンは押し黙り―ウエスギただ一人が大声を上げた。
「２年も“降りてた”癖に何が出来る！ やめとけキム・ウォジ！ 管理データ壊したらまた公認証凍結だぞ！」
耳に入らないように、キムは作業を続けた。クラウディアが心配そうにキムの背後から囁いた。
「って、お友達が言ってますけど」
「心配性でねウエスギは。困ったもんだ」
既にキムの目の前のブラウザは、専門家しか分からないデバッグモードに代わっており、大量の記号と階層構造樹が凄まじい勢いで画面を流れていた。そして、それを上回るスピードで彼の目は数値を追い、システム内部の異常事態を把握した。無論一つ一つ検証などしていない。慣れた目には瞬間的な文字イメージと、分量や動きで大体の状況が掴めるのである。キムは滑るように埋め込みキーボードに指を走らせ、激しく点滅して逃げ回る一塊りの文字列を、まるでシューティングの敵キャラを撃ち落とすようにいくつか固定した。軽い静電気音と共にディスプレイが切り替わり、敵の本体―システム内を駆け回る何匹かの“ゴブリン”が表となってそこに出現した。
「どたま叩いてみるか」
ゴブリンの実行ファイルらしき文字列を、キムは削除にかかった。さすがに実体化していたゴブリンが事態に気付き、明確にキム一人に向け、フィアーモード（恐怖を感じさせる変声）の掛かった声で喚き立てた。
「何をしている！ フォロキャラに攻撃力がないと思ったら大間違いだぞ。命が惜しければデスクを離れろ！」
フロアの全員の視線がキムに集中した。ウエスギはカウンタを飛び越え、勝手に仕事に入ってしまった同僚の側に走り寄った。
「キム！」
「わぁすげえ。影（テンポラリ）が勝手にゾーショクして消せやしねー。お前やってみるか？ ウエスギ」
「簡単に出来たら“巫”の嘱託なんて呼ぶか！」
キムは意に介さなかた。激怒したゴブリンがキムの方に向かって走り始めた。一緒になってディスプレイを覗き込むウエスギの横で、キムは再びボソッと呟いた。
「足切れねーかな」
「拡張子？」
残像を残す速さでキムの指が動いた。強行操作らしく、警告音が何重にも重なって鳴り続け、ついでそれぞれのファイルに書き換えの指令が被さった。―ゴブリンは足を取られ、その場で転倒した。しかし次の瞬間、ファイルは全て書き替え前の状態に戻っていた。どうやらかなり強力なプロテクト、もしくは修復機能を備えているらしかった。フロアの残された照明が次々に消え、各部署の端末が静電気音と共に落ち始めた。システム内に残されたゴブリンが、リーダーのデータを守ろうと攻勢に出ているに違いなかった。―フロア責任者らしい男が、最後部の扉から走り出て来た。
「交渉はこちらでやります！ 手出しは止めて下さい！」
ゴブリンは立ち上がり、責任者にがなり立てた。
「もういい！ ここのシステムは全て破壊してやる。貴様らの職歴もパーソナルコードもこれで終わりだ！」
「しつけえ」
キムの目に初めて真剣な表情が浮かんだ。ウエスギはこわばった顔でゴブリンを振り返ると、意を決したように腰のハイジャンプフックに手を掛けた。クラウディア始め各オペレーターは、まるで対応できずその場に立ちすくんだ。―今まで手を付けなかった基礎システムのファイル。そこを開けると、キムは関係ないデータファイルのコピーを突然叩き込んだ。
「まず爆弾」
システム異常を知らせるビープ音がフロア全体に響き渡り、フォログラフのゴブリンは、ふわっと何かの力に持ち上げられるように宙に浮いた。―と、彼はワープするように跳び、ついで壁に叩き付けられた。電流で防御された身体には力場があり、まるで物体のような非貫通性を持っていたのである。ウエスギは転がったゴブリンに向かって走り、フックを振り上げた。
「外からの攻撃が効くかどうか。データとっとけよ！」
フックがゴブリンの身体に突き刺さった。静電気を喰わないよう絶縁体の素材で出来ているフックの周囲で、ゴブリンの画像が溶解した。―一方キムは、目にも留まらない速さで何かの記号を打ち込み、自作のデータを作っていた。
「効くのかね？」
ゴブリンを示すウィンドウの中の一つの文字列が激しく乱れた。先程攻撃されたリーダーの物に間違いなかった。キムはアイデンティティ・ファイルの種別を示す「判別子」のコピーを取った後、サーチを掛け、手製のデータを一気にシステム内に流した。
「そこそこ効いてるね。こっちはどー？ 引き続き細菌攻撃」
ガシャ、ガシャと激しい音がして、フォロ投影機のレンズが勝手に動き始め、潜伏していた何体ものゴブリン達がその姿を現した。全員が苦悶の表情で身体を押さえている。彼らの体表面で電流が弾け、緑色の体色がモノクロに薄れ始めた。彼らのファイルはシステムとの関連性を徐々に失い、壊れ始めていた。
「貴様、何をした！」
まだ意識（そう呼んでいいなら）のあったリーダーが断末魔の声を振り絞るように叫んだ。そよ風に吹かれてでもいるような、平然とした表情でキムは答えた。
「ごく簡単なウイルスを撒いたの。即席だけど結構効いた？ あ、皆さんワクチンみたいな物だからシステムは大丈夫。じゃあ後は本家に片付けてもらいましょう」
ゴブリンは一体、また一体と消え始め、それに相対するようにフロアの照明と落ちていた端末が灯り始めた。再起動の音とシステムチェックの鳴動がフロアに響き、クラウディアは我に返ったようにキョロキョロと天井を見渡した。フロア責任者はため息を付き、投げたように頭を押さえた。
「プロですよ。フリーランスの傭兵タイプにはこういうのがたまにいる」
「…手を借りる事態は二度と招きたくないものだ」
最後の仕上げに、キムはセンターの全リンクを“ヘパイトス”直通ラインに繋いだ。―目に見えない電脳内部の世界で、無数の“蟹虫”たちが動き出し、もはや動けなくなったゴブリン達を喰んだ。フォロとして映像化される事は無かったが―もし人の目に見えれば、それはピラニアの饗宴のような凄惨な光景だったろう。やがてフロアの闖入者共は全て消滅し、静寂が訪れた。ウエスギは、対妖精計画になぜ２級“予言者”からの抜擢でキム・ウォジが指名されたか、今更ながらに思い知っていた。
「ああ… 職歴と自由動作権の凍結？ まさか昇って来た翌日から仕事を始めるとは思わなかったんだ。ちゃんと解除して許可を出しておく。手間を掛けて済まなかったね」
フェル・マルコはウエスギからの電話―この時代の、大抵の機能を備えたシステムノートに入った通信―で事の次第を知った。彼らのチーム編成を企画したのはマルコであった。それ以前にもキムとウエスギのような、（あるいは腕はやや劣るかも知れないが）対妖精チームは無数に作られ、そして“ヴォルカヌス”の前に敗北していったのだ。キム達が同じ運命を辿らないという保証はなかったが、キムの経歴―度重なる地球への出向、もしくは左遷、追放―に、マルコは一縷の期待を掛けていた。データの海だけで生きていく“月兎”には荷が重すぎ、重力の帷を感覚の中に引きずり続ける“地球人”では、あまりに複雑化したオリムポスの内部は掌握しきれない。オリムポスシステムは宙に浮いた「別世界」であると同時に、地球上で発生した「因縁の世界」の継承なのだ。せっかく国家や、民族や、それの織りなす愛憎と利権の世界に別れを告げ、一線を画したというのに… 月は未だ地球の支配から逃れられないのだろうか？
「…衛星だからな。所詮」
自宅の「窓」から、マルコは空に掛かった地球を見上げた。完全な自由は、全てを失う事と同義である。地球を失った月は、もはや巨大で危険な隕石でしかない。全ての人類史を失った人類が、もはや「人類」で無くなっていくのと同じように。
「だからー。乱暴なのもたまにいるわよ。“妖精”にも妖精なりの生活ってもんがあるんだから。逼迫してたんだわ。そんなに怒らないで」
「かばう奴は犯人と余同罪、てー言葉知ってるか」
「可愛くないエンジニア」
キムは自宅に戻り、仏頂面でサイドテーブルを占拠して、簡単な食事を取っている最中だった。彼の後ろでは相変わらずトリートニス―妖精だか何だか、いまだ正体不明のデータ生命体―が、重量がないのをいい事に棚に腰掛け、キムを眺めていた。すらりとした容姿と白い肌を薄手のローブで包み、赤金色の豊かな髪を垂らしたその女は、ディスプレイから転がり出たりさえしなければ、どう見ても人間であり、敢えて言うなら人類遺伝子のまだ乱れていない、古代的な美しさを保存している人種に見えた。
「でもね。ゴブリンは初期型よ。こけ脅しの門番なんかに使われてた、メンタリティ階層のないタイプ… ニンフやシルフはもっと高等だし、即席ウイルスくらいじゃ倒せないんだから。もっとも、悪質な攻撃はあたしがさせないけど」
「…お前、俺を昔から知ってた？」
「え？」
「なんか、初めて出現した時そう言ってたからさ」
安手の樹脂カップのスープをすすり込みながら、キムは尋ねた。トリートニスはちょっと目をそらし、考えてから答えた。
「ルナの人達なら大抵知ってるわ。エンジニアは特にね。こっちの生活にも関わるもの」
「いつから？」
トリートニスは、ニッと笑った。
「歳がばれるから教えない」
「データの癖に歳もへったくれもないもんだ」
相手が人間でなければ、キムは一切愛想を使わない男だった。初めてそれを知ったらしく、トリートニスは興味深げに彼の食事を眺め続けた。
「呼びにくいな」
「何が？」
「“トリートニス”は長い。もうちょっと別の名前持ってないのか？ 愛称とか」
「あたしこれでも偉いのよ。今まであだ名で呼んでくれる人いなかったもの」
「トニー…」
「何よそれ！ 男みたいじゃん」
「トリ… リーナ…」
「ありきたり」
「トリス…」
「大昔の酒の名前」
ついに、キムは切れた。
「じゃかましいこのバグ女！ 置いてやるんだから文句言うな！ トニーでいい、トニーで！ まったくもお」
ぷんすかして食べ終わった使い捨て食器をシューターに放り込むと、キムはベッドに入り、怒ったように布団を引っ被った。トリートニス改め「トニー」はそっと棚を降りると、ベッドに寄ってキムの顔を覗き込んだ。
「どうしてあなた、一度もあたしを消そうとしなかったの？」
キムは答えなかった。おそらくは朝までその体勢を固持するつもりらしかった。
“アフロディーテ”は、幾百とも幾千とも知れない隠しファイルの“貝”を伴い、夜の高原をゆっくり火の山へと歩いていた。闇の中に、更に黒々としたヴォルカヌスのシルエット、そしてぐつぐつと煮えたぎる山頂付近の溶岩が浮かび上がった。溶岩の一部は流れ出し、大地の窪みにマグマ溜まりを作って、彼女の領域と十二神の集う“神殿”への道を完全に閉ざしてしまっていた。お着きの精霊たちはため息を付き、“アフロディーテ”は困惑したように、その美しい眉をひそめた。溶岩は夫“ヘパイトス”の怒りの顕れに見えたが、そもそも罪悪感というものを持っていない彼女は反省する訳でもなく、ただ戸惑い、助けを求めるように周囲の精霊たちを見た。
〔確かに、私は滅多に十二神会議に出席した事はなかったわ。だからといって、こんな…〕
〔アクセスが段々遅くなっています。もはやハデス様や、デュオニソス様のいる裏道しか使えないのですから。何とかヘパイトス様のお怒りを鎮める方法はないでしょうか？〕
〔あの人は不遇な人です。父、ゼウスにも愛されず、いつも独りで過酷な職務を負って… それは良く解っていますが、こんな形を取ってはオリムポスは機能しません。あの人はここに私を閉じこめるつもりです〕
精霊たちは押し黙った。孤独なのはシステムから浮いた存在、アフロディーテもまた同じなのである。溶岩は、バグやウイルスのみならず、全てのデータを解体して溶解させる“ヘパイトス”の最終兵器であり、無数の“人形”はこれを材料にして次々と造り続けられていた。美術関係の要求をお堅い神々達の間で通すには、それなりの「コネ」と「歓心」が必要である。そのために払う“アフロディーテ”の対人関係の努力は、時として「浮気」の形を取り、それはもはや“ヘパイトス”の忍耐の限度を超えていたのである。―システム的に言うと、そもそも不正データと正規データの境界のない芸術関係の操作に、“ヘパイトス”の判別機能が限界に達し、全破壊モードの一部が作動し始めた、という事になる。“アフロディーテ”は救いを求めるように空を見た。彼女の話を聞いてくれそうな、“アフロディーテ”“ヘパイトス”同様に孤独で、十二神の世界から忌避されている神は、一人しか思い浮かばなかった。
→４に続く