掲載／不明
ジャンル／不条理
友人たちと道を歩いていた。左にのっぺりしたコンクリートの高い壁（たぶん堤防だ）、右に荒れた空き地に挟まれたまばらな家々、そして正面に色付き始めた夕陽を見ながら、俺たちは歩き続けていた。広々と舗装された一本道で、俺たちを除けば交通量はゼロに等しく随分と歩き易い。そのためか、軽いオモシロイ会話が途切れ無くかわされ、皆ひっきりなしに笑った。おかげで何の為歩いているのかは殆ど忘れ去られていた。
でも、目的が有った事だけは確かなのだ。たぶん「メロンを食いに行く」ことだったはずである。何故なら、俺は談笑しながらふとあることに気付いて、立ち止まってしまったのだ。
「どうした？」
“笑い”の雰囲気（ムード）を破られた友人の一人が当惑した顔で聞く。
「…財布忘れた… 俺、どうしよう？」
正直言って、この時の俺の顔は引き攣っていた。メロンは高価な果物なのだ。おごってくれとも言えない。第一、俺がこのセリフを吐いた後誰一人として“気にするな おごってやるよ”とは言わなかった。ただ、白けた、そのくせ妙に威圧感のある沈黙がのしかかり、俺に引き続きこう言わせたのである。
「今から戻って取ってくるよ。かまわないで先に行っといてくれ」
間髪を入れず、俺は振り返って走り出した。友人たちの反応を見たくなかったのかも知れない。とにかく急がなければ…… 俺は今まで経験した事のない焦った走り方で、それでもかなりのスピードを出した。友人たちの気配が背後から急速に遠ざかって行く。早く… 速く…
―と、再び急に俺は立ち止まった。ふっと「こんな事をしてたら友人たちを見失うかも知れない」という考えが浮かんできたのだ。そう言えば、俺は奴らにひっついて来ただけで家へ帰る道も目的地への道も知らなかった。こりゃあえらく早まった事をしちまった。迷子になるよりは他人が食うのを指を咥えて見ている方がまだましではないか。たとえ、メロンが俺の大好物だとしても。
俺は再び方向転換をして戻り始めた。追いついたら気まずい思いをするだろうが、かまうものか。遅れを取り戻さなきゃあ。早く… 速く…
気まずい思いはせずに済んだ。その代わり、俺はだんだん血の気が引いてきた。大変なことに、走っても走っても友人たちの姿が見えないのだ。影も形も。 ―どこかに横道があったのか。それとも奴らはそんなに足が速かったのか。いや… 俺から逃げたような気もする― なんにせよこんな風になってしまったんでは、どうすれば良いか見当もつけられない。さらに先へ行くか戻って横道を探すか決心のつかないまま、俺は行ったり来たりを繰り返し始めた。おろおろと、実にみっともない様子だったに違いない。
夕陽は沈みそうでなかなか沈まなかった。ぐったりと疲れた俺はふと目についた店へふらりと入り込んだ。喫茶店のように思えたが軽食堂だったかも知れない。とにかく座りたかったので、何も考えずたっぷり二人分の椅子を占領して掛けた。
「ご注文は」
どこからか声がする。目を閉じて半分眠り込んでいた俺は「メロン」と呟き、しばらくぼけっとしていたが、５秒後に飛び上がった。メロンだあ？ 俺はここで何をしてたんだ。財布を持っていないのに！
改めて周囲を見回す。テレビが棚の上で騒ぎ立てている。（漫才でもやっているらしい）そしてその下でテレビ以上に騒ぎながら４〜５人の男女がひとつのテーブルにへばりついていた。楽しそうで、どこか軽薄そうな奴ら。あいつらは金持ちだ。テーブルの上におびただしい数の汚れた皿やコップの山を見つけ、俺は卑屈に身を縮めた。ここからそっと抜け出すための体勢なのだ。 ―と、ドン！ という鈍い音がして、目の前にはいつの間にか厚手の青ガラスの大鉢が置かれている。しかも中には、あろうことか缶みかんらしきものが山盛りにぶちまけられていた。
「…俺はメロンと言ったはずだ」
（原稿喪失、以下書き直し分）
「当店にはございません。みかんはお嫌いですか？」
嫌いなわけではない。どちらかと言えば好きな方だ。だが、みかんにはいやな思い出がある。子供の頃缶みかんを食べていて、中から人の指の皮が出てきた事があるのだ。しかし、そんな事はおくびにも出さず、俺はただ無表情に ―と言うか、財布が無い、という事実を悟られたくないが為に呟いた。
「いや…」
甘い粘液の中に、まるで幼虫のように浸っているみかんの房をかき込みながら、俺の目線は窓の方へと泳いでいた。店のウインドウには分厚いカーテンが掛かり、外の様子はまったく分からない。 ―今頃、友人たちはメロンを食べているのだろうか。その楽しい会話の中から、一人取り残された俺の存在は完全に消えてしまっているのだろうか。もう、夕陽は落ち、当たりはすっかり暗闇に包まれているのだろう。まるで未練がましい、恋人に去られた男のような気持ちになり、俺は窓の方へと近付き、勢い良くカーテンを引いた―
夕陽が、そこにあった。
なんという事だ！ あれから何時間も経過したような気がするのに、夕陽はまだ、俺が道を歩いていた時と同じ色、同じ角度で空間を照らし、ついで惜しみなく店の中へと流れ込んで来るではないか。 ―ひょっとして―今走り出せば―今すぐ追いかければ、再びあの友人たちに追い着けるのかも知れない―
無意識に、俺は出口の扉へと駆け寄り、外へ出ようとしていた。
（書き直し分終了）
「お勘定」
扉の手前で凍りついて、俺はノブにかけた手を引っ込める。ぎこちなく声の方を振り返り、こう返答した。
「いや… まだ出ませんから」
今も俺は店にいる。ここには時計が無い。いや、時間そのものがあるかどうか疑問である。ことによると夕陽はまだ同じ位置にあるかも知れない。しかし、もうそれを確かめる事はできないのだ。カーテンを開けた時、室内に充満した光にあの一団がさっと振り向き、激しい不快の表情を示したのを見たからである。ここは薄暗闇で然るべき場所だった。そうでなければ、テーブルを囲むバカ騒ぎはテレビの画像よろしく強い光に負け、薄ぼやけた埃色を呈して消えてしまうことは目に見えている。
みかんはそろそろ無くなりかけていた。すでに“メロンの味”など思い出せなくなっていた。そもそも、俺はメロンを食った事があるのだろうか。無かったとすればこれこそがメロンの味だと考えても良い。別に不都合は無いのだから。 ―この鉢が空になったら、またみかんを注文しよう。永久に勘定などさせるものか… ひょっとすると、あの一団も俺と同じ立場なのかも知れない。そのうち声をかけてみようか。
脳裏の片隅にある考えが浮かび―“これは悪夢の一種なんだ”― きれいに消え去った。
ＥＮＤ
〔解説〕
これは、実際に見た夢をほぼそのまま書いたものである。時期的には、高校の文芸サークル誌「ういっと」と、そのＯＢ会であった「さろおむ」の中間くらいではないかと思う。印刷物はバラバラになって崩壊しているので、仕方なく加筆修正した。ただたんに「財布がない」というだけで、無限地獄に封印されてしまうあたり、将来の貧乏の予知夢かも知れないと思わせるのである。